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(3) 名桜大学の設立の経緯

 

人口減少、とくに若い層の中南部への流出など、「このままでは北部は水だけでなく、人材の供給源になってしまう」との危機感が背景にあって「名護市に高等教育機関の設置を」という声が起こった。名護市は北部の中核的都市であるが、高等教育機関は農業大学校を除いてほとんどないことも、「教育の機会均等の保障」ということが高等教育機関設置の大前提となり、人口、とくに若者層の定着に向けた対応が強く迫られていた。

1980年に大学誘致の市条例制定及び、「名護市大学誘致委員会」が設置され、同委員会で大学の方向性を検討、中間報告、市民シンポジウム、市長への答申と進展した。計画案は北部広域市町村圏協議会へ委託し検討されてきたが、1]「誘致」になると条件面で相手側(大学)の要求が多すぎる。2]短大では地域密着型になってしまい広範囲の学生を集めにくいなどの理由や財政面、運営面での課題や問題点などから設立が危ぶまれたこともあって、82年に計画は一時中断した。とくに資金面では、大学誘致も分校設置もいずれも数十億円の事業となり、新しく大学を開設するのと資金的には変わりなく、財政負担が大きいことがネックとなった。

しかし、89年ごろから北部出身の有識者らが「なんとかヤンバルに大学を」との意見をだし、全面的な支援を約束した。一方、市は県内の進学状況、出生率が全国より高いことなど客観情勢を分析、大学や分校の誘致ではなく、私立大学を新設する学園構想を決定した。91年に名護市議会で総合学園設立に関する決議が行われ、新大学設置に向け、北部圏域の取組は進んでいった。

その後、平成4年2月、大学設置の基本構想、財源計画などの確定を経て、文部省の1次、2次の大学設置審議会をパスした。1993年3月、名護市内為又(びいまた)で大学建設工事が着工され、1994年に第1回の入学生を迎えるに至った。

創設経費は66億円で、このうち52億円を名護市が財産処分をして捻出、3億円を残りの11北部町村、10億円を県が負担した。

 

 

 

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