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5. シルクロード史における文化交流

 

樋口隆康先生(「続シルクロードと仏教文化」)によるとアフガニスタンのテペ・シュトル遺跡では菩薩のある像のある両堂と並んで別の建物群には、手に梶棒の代わりにヴァジュラ(金剛杵)を持ったヘラクレス像やギリシャ的顔をした群像が並んでいる。

このような事実から見てとれるように、シルクロードは東洋(中国)と西洋(ローマ)間の物資の交易のためのルートとして古来から切り開かれてきたが、同時に文化(知識、技術、情報)の伝搬にも大きな役割を果たしてきた。

19世紀のドイツの地理学者リヒトホーフェンによって名付けられた、「絹の道」は、今日ではアラビア海から中国の沿岸を結ぶ海路をも含めて、東西文化の交流の道を表す言葉として用いられていることが多い。

シルクロード東は日本、朝鮮半島等を含む中国の文化圏と、ギリシャ、ローマ、エジプトといった地中海文化圏との文物を通じた交流の道であり、その中間に位置するペルシャ、インド、北方の遊牧民族等を含んだ壮大な文化交流の舞台となった。

紀元前5世紀には、ペルシャ・アケメネス朝ダリウス大帝の道路建設、つまり「古代帝王の道」がそのきっかけであり、紀元前4世紀ではギリシャのアレクサンダー大王の東征、紀元前2世紀へ下れば、中国・漠王朝の成立とその宿敵の匈奴、大月氏、西ではパルティア王国、エジプト、ローマ帝国という列強国の併存である。

今回の調査国(トルコ、シリア)とシルクロードの歴史上でのつながりについて考える時、隊商宿(キャラバンサライ)とアレクサンダー大王の遠征がともに両国(地域)にも関連深く、ここでこの二つの歴史遺産につき述べたい。

 

(1) キャラバンサライ(隊商宿)

シルクロードの歴史を考えるとき、切り離せないのが物資の交易と情報の交換、休息を行う商人たちの宿(隊商宿)=キャラバンサライであろう。

セルジュク・トルコ時代に重要であったキャラバンサライは元々は旅人の安全のために設置されたものであり、隊商達を安全な状態に置くための宿泊が許されていた。時の支配者にとって各地を行き来する隊商達を保護し、彼らから徴収する税金が大切な財源の一つとなっていた。宿泊客は身分を問われることなく、3日間無料で泊まることができた。オスマン・トルコ時代になって、主要な町に宿泊施設ができると、キャラバンサライの重要性は次第に失われていった。

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