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◎鹿を追う人◎

 

私は、二十才から二十二才までの二年間、猟銃を担いで鹿を追った。祖父も父も鹿猟を専門とする猟師で、わが家が代々、「豊後鹿猟師」の作法を受け継いでいたからである。それは親から子へ、あるいは猟師から猟師へと伝えられる秘伝であった。父は祖父に連れられて山に入り、猟師仲間からその作法を聞いて覚えたと言い、私にもそれを伝えようとした。それは、天文・気象・地理・動植物の生態などの知識を下敷きとした膨大な狩りのデータの集積で、北部九州修験の拠点ととて栄えた英彦山開山の伝説にもまつわる古伝承とも関連していた。私の生まれた村は英彦(ヒコ)山山系に連なる山の村で、村の外れには英彦山修験系の神社もあった。英彦山開山の僧・善正は、豊後日田の藤山村の猟師藤原恒雄に先導され、英彦山に入ったというのである。旧・藤山村とは、私たちの村を含んでおり、村にはいまなお藤原姓を名乗る家があり、私の村の猟師たちこそ、英彦山山系を狩場とする鹿猟師であった。

鹿猟師といっても、私の場合は、まったくの初心者だったから獲物であれば何でも狙った。一度は狩猟が禁止されているカケスを撃って、父から火が出るような激しさで叱られたことがある。猟師としての血が多少なりとも私の中に入っていたとする例を上げるならば、ある一日、十数羽のコジュケイと一羽のキジを仕留めたことと、日田から英彦山を目指した折り、犬を連れずに銃だけを担いで出掛け、二羽のヤマバトを続けざまに仕留めた例ぐらいだろう。

花月谷と呼ばれる奥山に入った時のことだ。寒い日で、山道は霜で凍りつき、昼近くなってもその凍みが解けなかった。暖をとるため、父の指示に従って道の脇に枯れ木を集め、焚き火をしていた時、思いがけぬ事態が発生した。散歩気分で辺りを探索していた柴犬の“太郎”が、突然、追撃態勢に入ったのだ。何か、獲物の痕跡を発見したようであった。そこは枯れ草山の麓にあたる場所だったから、私は雉が出るものと予測して、散弾を充填し、「行けっ!」と太郎に合同を送った。太郎はここぞとばかりに繁みに飛び込む。その直後に、――ど、どうっ、

と山鳴りのような音がして、巨大な鹿が踊り出た。それは小ぶりの馬(湯布院の町で辻馬車を引いている対馬馬――長崎県対馬産の小型馬――を思い浮かべて下さい)ほどもある牡鹿で、あっという間に数百メートルの距離を走り去り、ちょうど花札のボウズのような形をした丸い草山を登り切って、項上に達した。悠然と、項上に立った鹿は、こちらを振り返り、追いすがる犬や麓で見上げる猟師たちを、きっ、と睨みつけ、翻然と身を翻し、山の稜線を越えたのである。まさに見事な一幅の絵のような光景を、私たちはただ手を拱いて見ているだけであった。散弾を鹿撃ち用の実弾に詰め替えるわずかな時間きえも確保できぬ間の出来事であった。

はっと気づいて、

「追おう!」

と勇み立った猟師たちを制したのは父である。その時、父は、自分の左手で握りこぶしを作り、そのこぶしの山の部分(ゲンコツのいちばん尖った部分)を互い違いに数えながら、

――今日は何々の日じゃから、あの鹿は英彦山まで止まらずに走る。追うても獲れまい。じゃが、あの鹿が走った方角に他の鹿が居れば、物音に驚いて何々の方角に走る。するとその鹿はあの上手のあの二本の木の間を通るはずじゃ。射手はその右上の切り株の上で待て。

という内容のことを言うのである。半信半疑で持ち場に向かった私の前に、予告どおり、一頭の鹿が走り出て来たことを明記しておこう。それは件の大鹿とは異なる小さな鹿で、一本角のサオシカと呼ばれる子鹿(一才児)であった。私はただちに発砲したが、弾は見事に外れ、その外れた訳も、またそのサオシカの行方をも父が解明してくれたことを申し添えておこう。その時、父は、

「鹿猟とは天文学じゃ」

と言った。天文・方位の知識と地質・地形・鹿の習性などを組み合わせて猟師たちは鹿の行方を予測し、追う。

 

 

 

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