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山口……千葉大に移った橋本裕之さんがいうには、民俗芸能は明治以後に作り替えられたものだから、直接、体で語りかけてくるストリップこそ、同時代の本当の民俗芸能だといって、やるべきだと主張しています。ただ彼も見世物を言葉として使っていません。学問のテーマとしてすえたというのは彼が始めてでしょうね。実際は郡司正勝さんが歌舞伎民俗学という視点を中心にしていましたから、見世物を射程に納めていました。歌舞伎の専門家は、歌舞伎の見世物性なんてことは言っていない。『見世物学会』を作って下さいよ」というのが郡司さんの遺言のようなものだろう。

木下……歌舞伎のいかがわしさを指摘するのは、私が美術のいかがわしさを指摘する以上に大変なことです。芸能の研究は、芸能が無形文化財という概念を抱え込んでしまったことに縛られてはいませんか。見世物研究ではここ十年くらい、橋本さんとか鵜飼正樹さんたちとか橋爪紳也さんたちが現場での体験をベースにした研究を展開しています。私がやったことは、美術史にもその橋を渡したという感じです。橋を渡すことによって、美術と呼び習わしてきたもののすべてをいったん見世物に還元できる面白さがあります。

山口……日本における無形文化財という考え方についてという博士論文を書いている学生に、ロンドン大学で昨年会いました。ところで見世物研究は木下さんの美術史は先導役を行っている。

 

◎美術と伝統芸能のいかがわしさ◎

 

木下……私自身が美術館の学芸員として物を見せる現場にいたんです。見せているものが油絵になったり、彫刻になったりしただけで、かつての浅草の見世物に繋がっているなという気持ちになりました。もちろん美術の世界にも、国宝や重要文化財など有形文化財がありますが、無形文化財化した歌舞伎の過去との断絶のほうがもっと極端なのかもしれませんね。しかし、明治維新を迎えるまで、歌舞伎ほどいかがわしいのはなかったんじゃないですか。

山口……歌舞伎は能と同様にだめになっていくのですが、明治三十四年に明治天皇が歌舞伎を見に行くのです。それ以来復興してきたのです。

明治に洋ものの芝居もやった歌舞伎の劇場、明治座の前進だったでしょうか、新富座で生き長らえようとしたのですが、全体としては、沈滞し、明治時代に大槻修二(如電、文彦の母)が出てきて諸芸芸能大会をおこなって以来、芸能という言葉が使われてきた。芸能研究は彼に始まるのではないでしょうか。大槻如電という人は、東西の洋学の歴史、ものすごく克明な年表を作った。彼が、今日我々が言う身体芸としての演劇というものを諸芸の中に入れた、大学の学者にならなかった。民間学者といっても民間を意識しているのではない。明治維新の時、父親大槻磐渓が仙台公に仕えていたために、維新の際、理由なく牢屋に入れられた。それで怒って文部省にいたのを、六年に父親の無実を証して辞めて、資料編纂係という職を弟に継がした結果が『大言海』です。変わった家系です。それが芸能について本気に最初に取り組んだらしい人です。国立能楽堂発行の「明治の能楽」という三巻本を調べました。幕末に仙台公に仕えていた時期があったからね、彦根の井伊公が仙台伊達公の藩邸に能を見にいったのが最初で、明治二十年頃の「能楽」という雑誌に、能役者にろくな者がいない。狂言も……。山本束次郎の四代前の先祖が隠居して山本東というのですが、この人だけは本当にいい芸の持ち主だったそうです。

この山本東は九州竹田藩の武士だった。歩くだけで人が笑う、天賦の素質があった。主の命令で江戸に出てきて、大倉流の弟子になる。ところが大倉流を受け継いだ人間はみな気が弱くて、逃げてしまう。そして大倉の家はさびれてしまう。大槻如電は、山本東だけは本当にいいよと言った。演劇が一度だめになってそれから……。演劇も仮設的なところへいってから興ってきたところがある。

 

 

 

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