日本財団 図書館


◎ナミちゃんとの別れ◎

 

昭和五十年代初には十数軒あった見世物小屋も、平成に入って片手に余る程になった。

見世物は、英語で「グラインド(Grind)ショー」とも呼ばれる。ストリッパーのお姐さんが腰をクネらすステージのことではなく一端、幕を開ければ、延々と決まった演し物を繰り返し演じ続ける形式、「グラインド」させる形式を表したものだ。

大きな祭礼地では、十時間「グラインド」し続けることも珍しくはない。年老わずとも骨身にこたえる仕事である。小屋掛けや小屋バラしも自分達の手で行なっているのだ。「グラインド」という英単語には「つらい単調な仕事」の意味もある。

舌先三寸で行きずりの人を集め、小屋へと惹き入れる見世物の木戸番は、調子に乗ると何とも言えぬ快感が得られるのだという。中で行なわれる演芸を短くハショって回転(グラインド)のスピードを上げ、「ダシオイ」をかけても追いつかないほど、ベルの音に合わせて人々を小屋へブチ込む作業は、それは痛快であろう。しかし、雨が降って人影がまばらになっても、口を止めることはできない。芸人と違って小刻みな休憩もないのだ。

見世物小屋の芸人、本戸番に後継者はいなかった。多田さんの息子は、小屋の組み壊しは手伝うが、木戸に立つことはない。

多田さんは、同い年のナミちゃんと巡業を続けた。時代は変わり、昔ながらの因果モノのタンカは使えなくなったこともあって、ナミちゃんに加え、必ず他から借りた蛇喰い火吹きの「やまねこ女」やサーカスのフィリピン芸人を客演させていた。

牛娘のナミちゃんが脳梗塞で倒れたのは、三年前の夏だった。病院に運ばれて間もなく意識が遠のき、左半身は麻痺してそのまま寝たきりの状態となった。夢遊の病床では、小屋で太鼓を叩く仕事をしていたという。

化粧をして舞台に上がれば若くみえたが、六十九才の老人が一日に何度も逆立ちする芸を続けていたのだ。ナミちゃんは意識を取り戻すことなく、翌年の六月一日に逝った。 マリリン・モンロー生誕七十周年の記念日に、同じ七十才で仮の世を去った。ナミちゃんは、最期まで"娘"のまま逝ったのだ。

 

◎「最後の見世物」最後の日々◎

 

多田さんが「最後の見世物」と題した文字看板を作り、小屋に掲げるようになったのは、ナミちゃんの死のすぐあとである。客寄せのため、呼び込みの口上にも「最後の見世物」という言葉が頻繁に現れた。

「ハイ、見世物もいよいよ最後になりました。もう後継者が居ないのです。来年はお会いできるかどうかわかりません。お見逃がしのないように、どうぞ、この機会にお入り下さい。ハイ、これが最後の見世物……」。

人間ポンプの安田さん、牛娘のナミちゃん、早川興行のおネエさん、狼少女アイコさん、ここ数年、見世物小屋の舞台に立った戦友たちがバタバタと倒れていった。多田さんは、あるとき、ふと真面目な顔をして呟いた。

「オレの写真に説明を付けるときは『最後の見世物師』としといてな」。

ナミちゃん亡きあとも、多田さんは太夫を借り受けて、見世物興行を続けた。昨年は同業者と中国・哈爾浜(ハルピン)にまで赴いて芸人を呼び寄せ、半年ほど舞台で使っている。が、商売としては、割に合わないものとなっていたようだ。それでも多田さんは、息子に任せ放しのお化け屋敷や、遊技への転身は口にしなかった。

人手がなく、蜘蛛の巣の上で歌を唄う「人頭蜘蛛娘」も、お化け屋敷の人形の首が代役をつとめていた。

多田さんは、ここ数年、「最後の見世物」の姿そのものを見世物にしていたような気がする。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION