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東光院の兜跋毘沙門天像

 

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岡上地域の石仏

 

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岡上神社の堅牢地神石塔

 

小田急線鶴川駅から歩いて十分くらいの川崎市麻生区岡上(あさおくおかがみ)にある東光院には、十二世紀末の作と思われる、高さ一二五センチほどの兜跋毘沙門天像(図12])が祀られている。寺の曲緒は定かでなく、この像の伝来も明らかではない。現在二鬼はなく朽損が著しいが、どっしりとした地天女に支えられた一本造で、顔は忿怒の表情をしているものの、像容や服制は簡素で実に愛らしい。ただ、この像は毘沙門天に比べ、それを支える地天女が、他の兜跋毘沙門天像より比較的大きく造られている。兜跋毘沙門天における北方守護の役割が減少され、土地神たる地天女の役割に重きが置かれているのであろう。そこには大地に根付いた土者の神の姿があり、東寺の兜跋毘沙門天像のような軍神的イメージはもはやない。

この東光院がある岡上の地域は、現在川崎市の飛び地で、町田市と横浜市に囲まれている。昔は相模国から武蔵国に入った地帯に属し、そのためサイノ神を祀るお堂に由来する地名や、今ぞも路傍には多くの道祖神が祀られ、正月のドンド焼きなどサイノ神に関する祭りも盛んである。横浜から続く古道沿いの丘峠)に東光院が建つのも、サイノ神を考える上で示唆深い。また、東光院の南の阿部原と呼ばれる丘から、平安時代の瓦が多数出土し、古代寺院の跡(岡上廃寺)か、あるいは瓦窯跡とされている。いずれにしろ、平安時代からここは境界の地として土着の文化が栄え、兜跋毘沙門天像などの“仏像”も造られたのであろう。そして、そのサイノ神の信仰は今でも連綿と続いている。しかし、その信仰の拠り所には、鎌倉時代以降兜跋毘沙門天の姿は消え、江戸時代後期から道端に置かれた石の地蔵や青面金剛、庚申塔などに転化されてゆく。岡上に今も残るそれら道祖神の石造物(図13])は、兜跋毘沙門天の後の姿なのかもしれない。さらに、東光院の道をはさんですぐ南に位置する岡上神社には、ドンド焼きの行事や安政二年(一人八五)作の堅牢地神と刻まれた石塔(図14])が残っている。兜跋毘沙門天像の地天女が、かつて堅牢地神と解釈されていたことを思うと、この地にはまだ兜跋毘沙門天が姿を変えて息づいているのかもしれない。

日本各地には、破損仏も含め百体以上の兜跋毘沙門天像が現存していると思われる。また、石造物の道祖神は、はかり知れない数をほこる。それらは、サイノ神のイメージという点で脈々と繋がっているのだが、鎌倉時代から江戸後期までの間にそのイメージを結ぶものは、定かでない。私は、仏像では地蔵菩薩を、民間信仰では人形道祖神などをその媒介物に考えている。紙面も尽きたので、その問題はまた別の機会で探っていきたい。ただ、兜跋毘沙門天は変幻自在に姿を変え、確かに私たちの身近に存在しているのである。

<和光大学講師>

注(参考文献)

注1]拙稿「福岡・観世音寺の兜跋毘沙門天像および大黒天像試論」「和光大学人文学部紀要」第31号 一九九六年

注2]森弘子「宝満山の祭祀」「太宰府古文化論叢』下巻 古川弘文館 一九八三年

注3]鈴木喜博「毘沙門天信仰の一形態について」『仏教芸術』一四九号 一九八三年

注4]むしゃこうじみのる「地方仏」法政大学出版局 一九八〇年、別冊太陽74 北天の秘仏(構成・円中恵 写真・藤森武)平凡社 一九九一年、拙稿「岩手・成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天像および伝吉祥天像試論」『和光大学人文学部紀要』第32号 一九九七年

注5]田辺勝美「多聞天と言う名称に関する一考察」「大和文華」第98号 一九九七年

※本連載三写(由然と文化54号)で記載した河南省宝山霊泉寺石窟大住聖窟外壁の迦毘羅王像に関して、私は鳥翼装飾は見当らないとしましたが、その後鮮明な図版で確認したところ、頭部の宝冠は有翼の冠であることが解りました。改めて訂正とお詫びをいたします。ただ、この宝冠が鳥翼冠だとすると、この迦毘羅神王像にもヘルメス神のシンボルである一対の翼状飾りが転用されたことになり、私見による毘沙門天と迦毘羅神とのイメージの共通性が強くなると思います。

 

 

 

 

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