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以上のように現住宅は営繕記録や火災記録から考えると、文政10年の火災後から文政13年の間に建てられた建物となる。ところが、文政13年より後の建物資料に天保6年の「家帳」及び「絵図」があり、この図と現住宅を比較することで、現住宅の建設時期を確定することができる。天保6年とは田村家2代俊強の時で、彼は用人として200石を賜わり17)天保8年に家老になる2年前の年である18)

 

6. 現住宅本屋と天保6年の「家帳」・「絵図」の比較

(1) 天保6年の「家帳」・「絵図」について

写真-11・12は「天保六乙未年四月甘六日吟味方江差出候扣 家帳 絵図面 田村又左衛門」と題する袋中の「家帳」・「絵図」である。同資料によれば、この「家帳」・「絵図」は2月に藩から家帳と絵図面の提出を求められたため、作成した控である。「家帳」は各部屋の大きさや天井及び床仕上、建具などの本数を箇条書に記入したものである。「絵図」は1間を約1寸で表現したもので、「家帳」と同じ内容であるが、式台、湯殿や外部建具の形式が追加されている。本屋建物は南を正面とし、桁行8.5間、梁間6.5間に、東側に半間の縁側、南東隅に雪隠、南側に幅2間の式台を張り出したものである。間取りは大きく東西に分けられ、東側の畳敷きの表座敷やその北に連なる奥向きの諸部屋と、西側の土間と板敷きを主とする勝手向きの部屋である。前者は床付きの拾畳、次の間と考えられる拾畳、式台をもつ八畳、六畳、さらに北側の七畳半、三畳である。後者は畳敷きの拾一畳、家人の入口となる土間、囲炉裏や流し、湯殿である19)。天井は拾畳2室、八畳、六畳が板天井で、拾一畳が簾の子天井、残りは記入がないから屋根裏等が見えていたものと考えられる。また、天井のある諸室は拾畳2室を幅とする梁間幅4間部分である。柱の大きさについては記述はないが、土間と物置と拾一畳の境の柱は特に大きく描かれているので、特別な柱と考えられる。

(2) 現住宅本屋と天保6年「絵図」の比較検討

現住宅が文政10年の火災後の建物であれば、大きな改造が平面になされていないことになるので、天保6年の「絵図」に重ねあわせたものが、図-5である。北東隅の梁間幅1〜1.5間の諸室を除くと、その外形線は、ほぼ同じで、特に拾畳敷の座敷2室と床の間、縁側、八畳敷、式台の各室は全く一致する。また、六畳、拾一畳、土間は内部に柱を建て間仕切れば、それぞれ応接間、旧女中部屋、台所、内玄関、物置ができ、現住宅に一致する。昭和54年〜57年の改造以前には、応接間部分が6畳間で、その西に押入があったこと、内玄関も新しく間仕切って作られたもので、それ以前は土間であったことが判明している20)。旧女中部屋と台所境の柱や鴨居上の壁は部材が中古材で、当初からのものでないことが判明している。一方、便所、脱衣室、浴室、台所セットの水廻り関係諸室も拭板敷き部分を間仕切ることによって可能となる。さらに「絵図」で大きく表現されていた土間境の柱は、現住宅においても位置は変わらず、一般の柱よリー回り以上大きい9寸角となり、絵図の表現と一致する。また、天井については八畳、六畳にあたる大玄関、応接間は改造されてわからないが、拾畳2室にあたる客座敷、裏座敷は板天井、拾一畳にあたる台所、2階階段等は簾の子天井に一致する。

一方建物の痕跡をみると、湯殿東側の柱が現在2本なくなっているが、本屋と下家を繋ぐ梁下端に柱ほぞ穴が残っている。応接間の北西の独立柱に取りつく2本の差鴨居は六畳敷と三畳敷あるいは拾一畳敷の境に一致する。応接間と裏座敷の境の中央柱は新設の柱で内法までで、改造以前は建具が入っていたことがその差鴨居材によりわかる。応接間の北西独立柱の西面には貫跡の理木やえつり竹跡の穴があり、拾一畳敷とその北にある半間四方の部屋の境線に一致する。以上のように現住宅に残る痕跡は天保6年の「絵図」と現住宅が全く一致することを示している。

 

 

 

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