日本財団 図書館


以上のように間取りは2階部分が大幅に改変されているが、主体部分である1階は全体として北側の水廻りを除き、改造があまり行なわれていない。

(3) 外観

写真-7・8・9は外観の様子である。屋根は切妻桟瓦葺で、台所上部に煙出しを設けている。2階部分の階高は低く、2階窓が軒桁のすぐ下にとられている。本屋は東西の妻面を大壁、南北の桁面を真壁とし、外壁を白壁とする。道路側に面する西側妻面の大部分は下見板張りで、台所の窓は出格子となる。北側の水廻り下屋や厩南の下屋は大壁で作られ付柱となり、新しく塗装されている。南側外壁では、壁熨斗瓦上で東西方向の桁上に建つ柱は、両端を除いて桁下の柱と位置が一致していない。また、南西の隅柱は桁上で継がれて軒桁に達している。一方、北側外壁は付柱や付梁のある大壁で、柱の状態を外側から見ることはできないが、屋根裏物置からみると、南側と同じく桁上で柱が継がれていることがわかる。庭に面する東側は、妻面が庇や手すり付きの開口部となり、現代的意匠の外観をもち、西妻面とは対照的である。

(4) 構造

座敷廻りは自然石の礎石、土間廻りは土が厚く堆積して、柱が掘立柱のようにみえるが、柱下に同様に礎石がある。柱は内玄関と旧女中部屋の境にある約9寸角の欅柱を最大寸法とし、7寸から3寸弱である。2階のほとんどの柱は新しく部屋を間仕切るためにのみ設けられたもので、柱寸法も1階より小さくなっている。小屋組は棟通し上の薄梁に建てた束で地棟を受け、この地棟に軒桁から登梁(折置組)を架け、母屋を支える構造となる。しかし、ずし2階を支える上屋桁には登梁は取りつかず、その下の敷桁は単にずし2階を支えるのみとなる。また、外観で述べたように上屋桁より半間外側の軒桁を支える柱は、全て途中の桁で切断され、さらに下部の柱と位置を異にしている。西側妻部では、妻梁通りより半間内側に上屋桁や敷桁と同じ高さの上屋梁、敷梁が構造的に小屋組と無関係に架けられている(写真-10)。以上から、本建物は以前には別の小屋組であったことが推測される。

 

5. 住宅に関する記録と火災

田村家文書によると、住宅に関する記録は、安永2年(1773)の藩作事からの「家帳」、「屋敷内手前造作之覚」、同年の「三の丸内屋舗拝領ニ付諸人用留」、安永4年の「絵図」、「諸普請入用書抜」、文政4年の「家帳」及び「絵図」、天保2年(1831)の「部屋絵図面写」、同6年の「家帳」及び「絵図」、明治期の「営繕留書記 俊恭時代」、さらに最近の台所等水廻りの造改築を模索した8代鋼三郎氏のスケッチや図面及び工事見積書・領収証等がある。表-1は安永2年以降の敷地や建物関係の諸記録、火災記録をまとめたものである。この表から安永2年に三の丸の建物を拝領してから、田村家住宅は安永4年の太郎兵衛火事、寛政元年(1789)の蓮光寺火事、文政10年(1827)の大根葉火事で類焼し14)、その都度再建されいることが「諸普請入用書抜」・「家帳」・「絵図」からわかる。その後、住宅が火災で焼失した記録は見当たらないので、現住宅は文政10年の大根葉火事以後に建てられたものであることがわかる。ところが、天保2年の「部屋絵図面写」内の文書や絵図から、文政13年(天保元年)から天保2年にかけて本屋の北東側に離座敷の増築が行なわれていることがわかり、文政10年から文政13年の間に本屋が再建されていることが判明する15)

その後、明治5年(1872)に離座敷の取り壊し、同9年に表門の売却等や付属屋の改変、同17、20年下屋部分の屋根が瓦に変更されたが、平面には大きな変化はみられなかった。大正8〜9年頃、本屋屋根が栗の板葺から瓦葺に変更されている16)。そして昭和54〜57年に北側下屋諸室の改造と続き、現在に至っている。但し、小屋組の変更や2階の造作時期については不明で、記録のない天保6年から明治5年の間か、現当主の鋼三郎氏が養子に入られる以前の明治30年から明治38年の間が考えられる。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION