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3. 三の丸屋敷の歴史

現在の田村家屋敷は大野市城町7-2に位置するが、大野藩時代は三の丸(当初外曲輪あるいは外丸)と称される地域であった。文政3年(1820)写の「越前国大野之図」6)によれば、田村家屋敷は三の丸内で、下大手門の南側に連なる武家屋敷の北から2番目の敷地にあたる(図-1)。絵図には田村隼人と記されており、田村家初代あるいは2代とみられる。敷地は道路と二の丸外堀から流れる排水路が走る西面を表とし、背面東側は土居と百間堀で区切られ、南側と北側はともに武家屋敷に接する。両隣は横田為吉、平岡政治(はじめは中村杢助)の屋敷で、それぞれ100石、150石の武士である7)「大野屋敷割帳」8)によると、田村家屋敷は「一、表口弐拾三間 一、裏口弐拾五間 一、竪拾六間北之方 一、同拾六間南之方 〆坪数三百八拾四歩」とあり、敷地は表間口約43.9m奥行約30.5mで、421坪となる(但し、1間6尺3寸四方を1坪とすれば384坪となる)9)。現在の田村家敷地の東西方向は、西側道路から百間堀跡手前までの長さが約42.1mであるが、土居手前までは約30mで、当時の敷地奥行は土居手前までであったと考えられる。

「大野屋敷割帳」と「田村家系譜」によれば、当屋敷は平岡政右衛門、牛嶋源蔵、そして一時明屋敷となり、安永2年に初代央俊が大野藩より拝領していることがわかる10)。また、この時拝領した建物の様子は藩作事より出された「家帳」によって知ることもできる11)。三の丸屋敷はその後代々田村家に受け継がれた。「田村家系譜」によると、明治12年の改正地租反別によれば、敷地面積が2反1畝7歩で、坪数になおすと637坪余となっており、弘化2年や明治6年の421坪より約216坪余増加している。これは敷地東側の土居部分の坪数に相当し、この時までに田村家がこの土地を所有したことがわかる。さらに明治39年に7代彪男が土井利剛より百間堀173坪を購入し、現在の敷地形状となった12)

 

4. 田村家住宅

(1) 配置

現在の屋敷は図-2に示すように東西約60m、南北約46mの大きさで、北東の隅が東西約16m南北約10m欠けたL型の敷地である。正面入口を西側の幅4.5mの三の丸通りにとり、東側の道幅の大きな柳下通りには向けていない。敷地には北東の隣地境界から南側約32.5mにわたり幅約10mの土居跡が残り、敷地を東西に分割している。このため東側敷地は貸地として利用されている。また、東側敷地高は西側部分より1・以上も低くなっている。この東側敷地部分は藩政時代には百間堀であったと考えられる場所である。一方、西側敷地は地盤高が前面の三の丸通りと同じで、本屋、蔵、物置2棟が建っている。

本屋は西側道路寄りに棟を東西に配置され、その南東に土蔵1棟が建てられ、本屋とは渡り廊下で接続されている。土蔵の西側に下屋が増築され、台所および居室として使用されている。土蔵東に物置小屋2棟が建てられる。これら建物と前述の土居跡で囲まれる部分は庭園となり、土居跡は樹木が植えられて庭の築山として利用されている(写真-1)。なお、南西隅の西側道路に面した部分は貸地で、敷地南側は畑や空地となっている。

(2) 間取

図-3・4は本屋の現状平面図である。写真-2・3・4・5・6は内部の様子を示している。

 

 

 

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