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23) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p101

24) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p105

25) 『六野市史(第5巻)藩政史料編二』p282「惣〆千七拾壱竃 外ニ土蔵弐百四拾七」とある。

26) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p105

27) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p78 文久元年辛酉年条 「今般屋根構被仰出候御趣意并規定之事 出火之節御家中過半類焼等有之候而者当節柄別而一統可致難儀、上にても甚被為御懸念候ニ付瓦屋根ニ相成候者類焼之苦慮多分相遁可申(後略)」とあり、文久元年に家中に対して瓦屋根を奨励しているが、町方に対する瓦屋根に関する記述はみられない。

 

(2) 越前大野の武家住宅、田村鋼三郎家住宅について  国京克巳

 

1. はじめに

福井県大野市は奥越の小京都とよばれる城下町である。城下町の形成は天正頃に金森長近によってなされ、その後結城秀康をはじめとする越前福井藩やその分家による支配が行なわれた。天和2年(1682)初代土井利房が4万石で支配し、その支配は明治4年の廃藩置県時の8代利恒まで続いた。大野市の旧市街には至る所に城下町時代の道幅の道路や用排水路があり、城下町の町割がきれいに残されている。また、通り沿いには、明治の二度の大火前後につくられた伝統的形式をもつ町屋が建ち並び、市街地東部地域には数多くの寺院群があり、城下町の趣をみせている。

ところが、町屋と並んで城下町を形成していた武家住宅はほとんどが姿を消し、わずかに城町に旧内山家住宅や水落に浅山巌家住宅が残るのみである。旧内山家住宅は明治15年(1882)頃に建築されたもので、江戸時代の武家住宅の様子を十分残しているとは言い難い1)。また、浅山巌家住宅は江戸時代末期のもので、内部に改造もあり、建物の性格さえ明らかになっていない2)。このような中、平成10年8月に日本ナショナルトラストによる「越前大野の城下町の町並み」調査が行なわれ、田村家住宅が武家住宅の遺構として調査された。本稿はこの調査結果の概報として住宅の現況と、その建築年代について考察するものである。

 

2. 田村家について

「土井家家臣由緒書」3)「土井家分限帳」4)並びに「田村家系譜」5)により田村家の概要を示す。田村家は大野藩の家老職を代々努めた田村左兵衛家を本家とし、初代を田村織之丞央俊とする。央俊は、宝暦9年(1759)兄の4代弥八郎俊徳の時600石の内100石を分知され、田村家をおこしている。安永2年(1773)央俊が三の丸屋敷を拝領し、本家の大田村に対して通称三の丸田村と呼ばれた。その後、天明9年(1789)、寛政4年(1792)、文化2年(1805)に央俊は加増され、合わせて200石となった。2代猪蔵俊強は、天保8年(1837)家老になり、同10年に300石となっている。3代俊英は慶応元年(1865)に何らかの理由により蟄居を命ぜられ、4代俊恭が新知100石となり、明治を迎えた。その後5代積穂、6代稲置(俊恭)、7代彪男、8代鋼三郎の現当主と続いている。

 

 

 

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