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安永4年の火災では91軒の地名子家が焼失している。この数は享保期よりやや少ないが、春日町や横町・大鋸町などに焼失を免れた地名子家もあることから、安永期における地名子家の数も享保期とさほど変わっていなかったとみられる。ただし、天保15年の絵図には地名子家の表記はなく、天保期における地名子家については不明である。

 

6. 「借屋」と「捌」

享保15年の絵図では、通りに沿って細長い四角で示された「かりや」があり、天保15年の絵図でも細長く示されているから、「借屋」は棟割形式の長屋と判断できる。現在の大野市内にも棟割長屋の借屋が数棟みられる。享保期の「借屋」は、大工町(三番上町)に3棟、八間町に4棟、七間西町と六間町にそれぞれ2棟、五番下町に1棟あり、全体で12棟みられるだけである。

ところが、安永4年の記録では389軒の「借屋」が焼失していて、享保期と大きく異なっている。安永の記録は本家・地名子家・「借屋」に奉公人の家と焼失寺院を含めて「惣〆千七拾壱竃」と記している。竃とは戸数、世帯数を表す言葉であるから、「借屋」381軒は借屋住まいの世帯数を指しているとみられる。仮に借屋1棟に4〜6世帯が住んでいたとすれば、安永の火事で被災した「借屋」の数は65〜95棟ほどになる。これでも享保期の12棟より多いが、「蔵家」形式の51棟と「葛家」形式の18棟を加えた天保期の「借屋」数69棟には類似している。

一方、本家層がもっていた貸家つまり「捌」は、享保期に75軒あり、そのうちの11軒が「蔵家」、64軒が「葛家」であった。天保期にも71軒みられ、「捌」の軒数はほぼ同じであるが、「蔵家」が43軒、「葛家」が28軒で、本家と同様に「捌」も享保期と天保期で両者の割合に大きな変化が認められる。

 

7. 土蔵

享保15年の絵図に□蔵印で示されている土蔵は38棟あり、天保15年の絵図にもそれに近い42棟の土蔵がみられる。これらは「蔵家」や「葛家」などと同じように通り沿いにあるから、土蔵造りの住宅とも考えられるが、仮に土蔵造りの住宅とすれば、「蔵家」よりもっと上質の住宅であり、「蔵家」と同じように本家層でも上層の家屋形態のひとつとして、城下の中心部に集中していたはずである。ところが、これらは一番通りや七間西町にはなく、二番通りや四番通りに多く、その位置からみると七間通りや六間通りに面してたつ町家の屋敷地の背後にたつ土蔵と判断できる。現在の大野市内にもこれと同じように通りに面してたっている土蔵が数棟みられるのである。そして安永4年(1774)の焼失記録の中で、土蔵が竃総数の中に含まれていない25)ことも住宅ではないことを示唆している。

ところで、安永4年に焼失した土蔵は245棟あり、享保期の38棟や天保期の42棟に比べてはるかに多い。これは享保や天保の絵図は通り沿いの土蔵だけを記しているのに対して、安永の記録は屋敷地背後にあった土蔵も含んでいるためとみられる。今回の調査でも市内で200余棟の土蔵が確認できたが、その多くは屋敷地の背後にあって、通りに面している例はわずかであった。藩政期も現在と同じような状況であったと考えられるのである。

このように大野城下に多くの土蔵がみられるのは、寛政11年(1799)12月の家作令の中に、「中以下之者にても土蔵ハ其分ニ応し、力にさへえ能候ハハ麁相ニ成共建候様可相心掛事」とある26)ように、藩が一般的な町人に分相応の土蔵をもつことを奨励していたためとみられる。

 

 

 

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