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この他、享保期(表-1)と天保期(表-3)には、4軒の「皮屋」がある。「皮屋」とは製皮・皮細工に関わっていた賤民で、これらはいずれも城下東南端のはずれ、春日町にあった。また安永期(表-2)には7軒の奉公人家がみられる。ただし、これらの具体的な家屋形態は不明である。

以上はいずれも住宅建築であるが、大野城下の町家建築としてに多くの土蔵があった。

 

3. 本家層の家屋形態(「蔵家」と「葛家」)

享保期における本家層の家屋は「捌」も含めて633棟である。このうちのほぼ9割に当たる567棟が「葛家」であり、「蔵家」はわずかに66棟に過ぎず、「葛家」が圧倒的に多かった。なお、「捌」は75棟で、11棟が「蔵家」形式、64棟が「葛家」であった。

表-1のもとになった享保15年の町絵図(図-1)によると、「蔵家」の大半は一番上町と七間西町に集中している。このあたりは大野城の表入り口である上町口に近く、城下の最も中心地であり、大店や豪商の家が建ち並んでいた。これら商家の家が「蔵家」の形態をもっていたのであろう。この他、四番上町と五番上町および七間東町にも「蔵家」が散見されるが、七間通りより北半の地域では一番通りを除いて「蔵家」がまったくみられない。また坂田玉子氏が指摘している8)ように、二番、四番、五番通りが七間通りと交わる角地には、城下の見張り役を務めた大きめの蔵家がみられる。これに対して「葛家」は、地域的な片寄りはなく、城下全域に広く分布していた。

安永の焼失記録(表-2)によれば、この時の火事で焼失した本家は580軒であった。前述したように、これは「蔵家」と「葛家」の和である。これに焼失を免れた春日町や横町・大鋸町などの本家を考慮すれば、安永期における本家の数は600〜650軒ほどになり、享保期とさほど変わらない。この間に大野城下に大火があったり、大きな被害を受けた記録もないことから、享保期にみられた本家層の家屋はほぼそのまま安永4年の大火まで存続していたとみることができる。

ところが、天保期における本家層の家屋の様相は享保・安永期とは大きく違っている。「捌」も含めた本家の総数は654棟で、享保期や安永期よりいくらか増加しているにすぎないが、享保期にはわずか66棟、9%に過ぎなかった「蔵家」が367棟に増え、本家層の56%に及んでいる。天保15年(1844)の絵図によれば、「蔵家」は享保期にもみられた一番町や七間西町はもちろんであるが、二番町や四番町、五番町そして横町などにもあり、城下の南半の区域に広くみられるようになった。逆に享保期には、9割を越し、城下全体にみられた「葛家」は287棟で、享保期の半数以下、割合は44%まで減少し、城下の東北を中心とした一画に集中しているだけで、享保期に比べて分布範囲も大幅に狭まっている。

以上のように、大野城下の本家層の家屋形態は、天保期において大きく変化していたことが指摘できる。

 

4. 「葛家」から「板屋」へ

表-4に藩政期における大野城下で発生したおもな火災の被害状況および火災対策の事例を示した。安永4年4月8日の大火から5年後の同9年にも330竃が焼失し9)、寛政元年(1789)10)、文化6年(1809)11)、同7年12)、さらに文政5年(1822)13)、同10年14)にも大野城下は相次いで大火に見舞われている。特に、寛政元年の火災では953竃が焼失、文政の両度の火災でも600竃以上が焼失している。こうした大火がしばしば起こり、大被害をもたらした要因のひとつに「葛家」があげられる。安永の火災後、藩はしばしば家作令を出し、「葛家」から「板屋」への変更を命じている。

 

 

 

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