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9. 補論

(1) 藩政期における大野城下の町家建築

吉田純一

 

1. はじめに

越前大野市は、金森長近によってつくられた天正期の町割を今もよく留めている。東西筋の六間〜八間通り・石灯籠小路・正膳町通りや南北筋の一番通りから五番通り、多くの寺院が建ち並ぶ寺町通り、そして町屋敷の背後を流れる背割用水などはほぼ建設当時のままである。

これらの各通りに面してたつ町家は、瓦葺きで、登梁や腕木を用いて深い軒をつくり、軒下の袖壁や正面の下屋庇、出格子など、伝統的な表構えをもっているものが多い。

ところが、平成10年8月の調査の結果、これらの町家はほとんどが明治21年あるいは明治32年の大火後につくられたことがわかった。伝統的な表構えをみせているが、現在の大野市内にみられる町家は、決して江戸時代に遡るような古いものではないのである。したがって、現存の町家を調査するだけでは藩政期における大野城下の町家の様相を明らかにすることはできない。

本稿は、以上のような観点から、古絵図や古文書を手がかりにしながら藩政期における大野城下の町家の実態を明らかにし、今回の町家調査の補足とするものである。

 

2. 享保期・安永期・天保期における町家建築の様相

金森長近は大野に入部した天正3年(1575)から同14年に飛騨高山に移るまでに亀山の地に大野城を築き、その東麓から東側にかけて順に家中屋敷、町人地、寺町を配し、大野城下の基盤をつくりあげた1)

江戸時代になると、寛永元年(1624)に福井藩初代結城秀康の3男直政が大野藩を興し、その後、秀康の5男直基、6男直良そして直良の子直明まで約58年間の松平時代があり2)、天和2年(1682)に土井利房が入城してから明治までの186年間は土井家8代の治世であった3)。この間にも大野城下は整備、拡大していったが、長近によって築かれた町割の基盤は変わらなかった。ただし、長近時代や松平時代の詳しい町家の様子は明らかでなく、町家の様相が具体的にわかるのは利房入城から約50年経った享保期以降のことである。

表-1、表-2、表-3はそれぞれ享保期、安永期、天保期における大野城下の町家建築の様相を町別に示している。表-1は、享保15年(1730)10月の年紀をもつ大野城下の町絵図4)、表-2は安永4年(1775)4月8日に発生した火災の焼失記録5)、表-3は天保15年(1844)の大野町絵図6)をもとに作成したものである。史料の記載形式が一定でないために建築種別や町別など統一されたものではないが、享保から天保における大野城下の町家建築の様相や変遷を捉えることができる。

まず、これらの表にみられる建築についてみる。

「蔵家」は土蔵造りあるいは塗家造りの家屋をさしている。しかし、川越市や高岡市にみられような本格的な土蔵造りの住宅は現在の大野市内には1棟もなく、五番町にある宇野金作家住宅のように、表構えを漆喰壁で塗り込めた、いわゆる塗家造りの家屋形態を意味していると考えられる。「葛家」は文字通り、藁葺きもしくは茅葺き屋根の家屋であろう。「蔵家」と「葛家」は、屋敷地と家屋を所有している町人たち、つまり本家層の家屋形態である。したがって、安永の焼失記録(表-2)にもられる「本家」は、本家層の家屋を指していて、「蔵家」と「葛家」の和とみなすことができる。本家層の中には自宅とは別に貸家を所有している場合があり、これを「捌(さばき)」と呼んでいる7)。この「捌」にも「蔵家」の形態と「葛家」の形態があった。

これに対して「地名子家」は、屋敷地を借り、そこに家屋を構えている地名子たちの家屋を意味している。この言葉から家屋の形態はわからないが、本家層よリ一ランク下の家屋とみてよいであろう。「借屋」は、享保期や天保期の絵図において細長い四角で表記されているから棟割形式の長屋であったと考えられる。

 

 

 

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