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2) 武家住宅

大野市内にのこる武家住宅は 田村鋼三郎家住宅、浅山巌家住宅、旧内山家住宅、柳廼社社務所(旧大野藩主隠居所)が現在知られている。

(1) 田村鋼三郎家住宅

当家は大野城への北東の登り口近くの城町7-2にあり、ここは大野城三ノ丸内の敷地であった。田村家は代々大野藩の家老を勤めた田村左兵衛家の分家として、宝暦8年に100石で創出され、本家の大田村に対して、三の丸田村と呼ばれた。初代を央俊とし、2代の俊強は天保8年家老となり、300石を賜わっている。敷地は安永2年(1773)に大野藩から拝領したもので、その当時の三の丸と堀を区切る土塁跡が、今でも敷地東方に庭の一部として残っている。建物は敷地西側の道路に面して建ち、本屋が桁行8間半、梁行4間半の木造2階建瓦葺きで、南、東、北に下屋を張り出している。1階は、客座敷10畳、裏座敷10畳、大玄関8畳、応接間6畳、納戸、内玄関、厩、旧女中部屋、台所、便所等で、2階は座敷8畳、8畳間、2階ホール等で構成される。大玄関の正面に幅2間奥行1間の吹き放ちの式台をもつ。建物の建設時期は2代の俊強時代で、文政10年(1827)の火災後から同13年の間にである。建設当初は茅葺きの平家建て、北側に下屋が現在以上に張り出していたことがわかっているが、建物内の主要部分は建設当時のまま良く保存されていて、武家住宅を知る上で非常に貴重な住宅である。

(2) 浅山巌家住宅

当家は水落にあり、ここは大野城下の北端に位置し、藩政時は下級武士の住居地域であった。浅山家は初代を八郎兵衛直好とし、大野藩主土井家入封と共に大野に入った。6代直躬は70石で家督を継ぎ、勘定奉行を勤めるなどしたが、安政4年(1857)北海道に渡り、藩商としていそしんだものの、慶応元年(1865)大野に引き上げた。その労に報いて藩主から拝領した建物が現在の建物という。建物は東西2棟からなり、西棟は切妻造平屋建瓦葺き一部鉄板瓦棒葺で、6畳2室と玄関・台所・便所等からなる。

 

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図-8 北西外観

 

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九 浅山巌家住宅 浅山巌所有 江戸時代

 

 

 

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