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3) 御清水、用水について

長近の城下の町割において道路割とともに見落とせないのが、用水路・排水路の設置である。城下建設当時、この地は雑草の生茂る未開地で、中野村の花蔵家の小作人たちの出剥地や草刈場であった。ここを城下町として整備するために地下を伏流水を生活用水とするために城下の南東方に本願寺清水を掘削し、これを源として南北の六筋の各通りの中央に上水用の水路を設け、また隣合う通りのちょうど中央、すなわち背中合わせの屋敷地の境に生活排水など下水用の江切(背割用水)を通した。これらの水路は上から下、すなわち南から北へ流れ、正善町通りで合流して西に向きを変え、中野地区の田畑を潤している。正善町通りの西側に隣合う水落の町名はこれに由来している。

こうした水路系統の整備も大野城下の大きな特色である。とくに通りの中央を流れていた用水路は消雪や防火に大きな役割を果たしていたが、昭和00年、自動車交通の妨げになるとして埋め立てられ、現在は暗渠となって道路脇に隠されている。一方、排水用の背割り用水路は現在もほぼ当時のままに残っていて、長近の城下建設時の様相を偲ばせてくれる。ただし、こうした用水計画も大火には充分でなかったようで、大野城下は江戸時代からしばしば大火に見舞われ、その都度大きな被害を蒙っている。これは明治になっても同様で、同21年と同32年に大火に遭った。明治21年(1888)の火事は、横町湯屋松井佐左衛門方より出火したもので、全焼家屋1113戸・半焼家屋14戸・空家45戸・土蔵322棟の他に、小学校・治安裁判所・寺院2棟を焼失し、死者3名・重軽傷者79名を出した。さらに、明治32年(1906)の火事は、横町人力車輓長谷川高松方より出火し、全焼家屋741戸・半焼家屋7戸・土蔵全焼76棟・土蔵半焼4棟・その他警察署・税務署・郵便電信局を焼失し、死者1名・行方不明者1名・負傷者19名を出す大惨事となった。なお、こうした町用水とは別にお城の濠の水は、亀山の南の現清水町南にあった別の沢地からひいていた。涌き水の量も豊富で、水門も設けられ、城の濠に流れ込む水量の調整もされていた。

 

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