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(2) 武家屋敷地 広さについて

武家屋敷地は、城郭を取り巻くように配されていた。百間濠の東側の柳町やその上(南)の清水町、下(北)の水落町・鷹匠町・代官町そして城山の後ろの北山町・後山町などにもうけられていた。中でも柳町から代官町が上級武家屋敷地で、中・下級武家屋敷はそれらの周辺に位置していた。

百間濠と道をはさんで建つ旧内山家住宅は明治期につくられた建築を再生・整備された武家屋敷の例で、水落の浅山家住宅は下級武家住宅の遺構といわれている。そして今回の調査で、百問濠を北に下がった旧三の丸の地にある田村家住宅は、幕末の文政10〜13年(1827〜30)ころにつくられた武家住宅の遺構であることが確かめられた。これについては後に詳述する。

(3) 町人の町屋敷地

町屋敷地は上述した南北6筋、東西6筋の通りによって大区画割されて配されていた。南北は上の六間通りから下の正善町通りまで390間(約700m)、東西筋は西側の一番町通りから東端の寺町通りまで150間(270m)であり、町人たちの屋敷はこの区域内に割り付けられていた。町屋敷地割は南北筋の一番町から五番町までの各通りを基準になされていた。すなわち、個々の屋敷地は南北の通りに沿って間口を開き、大きさは4間から6間前後が標準である。一方、南北筋の通りが約32間間隔であるから、個々の町屋敷地の奥行きはほぼ16間になる。そして背中合わせになる屋敷の境に拝水路が通されている。ただし、東西筋でも六間通りと七間通りでは南北筋と同じ様な屋敷割がなされている。

南北六筋のうち、西寄りの城郭に近い一番町が最も上位にあり、東西筋は七間通りがメインで、これより南、六間通りから横町が「上町」、北側が「下町」と呼ばれていた。したがって、一番町通りや七間通りが最も城下における中心街で、この周辺には大商家や大店、裕福な有力町人が屋敷地が並んでいた(第00章「藩政期における越前大野の町家建築」参照)。また、長近は南端の横町西よりに大鋸、三番町通りの上に大工、中に桶屋、四番町の中に鍛冶などの職人を集住させ、それぞれ大鋸町、大工町、桶屋町、鍛冶町とよんでいた。

 

(4) 寺社地

南北六筋のもっとも東端の寺町通りはその名の通り、多くの寺院が配されている。通りの東側には北から順に誓念寺・善導寺・長興寺・大宝寺・円立寺・妙典寺・光玖寺・恵光寺・岬慶寺・瑞祥寺の各寺が並び、寺町通りの西側には善導寺の前に長勝幸と浄勝寺がある。また横町通りの南側には徳巌寺と最勝寺が、誓念寺から正善町通りへは願了寺・善勝寺・法蓮寺・教願寺の各寺が続いている。つまり、これら寺院は、東端の寺町通りから南端の六間通り、北端の正善町通りと城下の北、東、南の三方を取り巻くように整然と配置されていることがわかる。つまり、これら寺院が宗教的性格をもち合わせていることはいうまでもないが、こうした配置形態をみると、大野城下の防御的性格をも有していたことがよみとれるであろう。

これに対して神社も数多くあるが、明治期に上井家を祠ってつくられた柳廼社は別として古い由緒をもつ篠座神社や神明神社、日吉神社などはいずれもこれら寺院よりも外側の旧城下から離れて存在していて、大野市街地の景観を形成するには至っていない。

 

 

 

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