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3. 越前大野の城下町と構造

 

1) 大野城下町の成立

越前大野の城下町は、今を去ること約424年前の天正3年(1575)に、金森長近が大野3万石の領主となったことに始まる。長近は初め犬山城に入ったが、その後、大野盆地の西北よりにある亀山に新しく城を建設した。亀山山頂に本丸をかまえ、その東麓(元の県立大野高校跡地、現在の駐車場)に二の丸・三の丸を配した。現在駐車場の東端に残る旧百間堀が城郭の東端であった。城下町はさらにその東側に建設された。南北に設けられた六筋の通りは、一番町から五番町までの各通りと東端の寺町通り、東西筋には南から北に向かって六間・七間・八間の各通りと石灯篭小路・正膳町通りが配されていた。南北筋の一番から五番までの各通りは42尺(7間)で、中央に本願寺清水から引いた上水路が設けられていた。東西筋の通りは七間通りが約5間の30尺(5間)で、六間通りが24尺(4間)、八間通りが15尺(2間半)、石灯篭小路は12尺(2間)であった。水路は各町家の背後にも設けられ、屋敷地の背割りを示すとともに生活廃水として整備されていた。上水路は現在埋められ、新たに通りの脇に暗渠化されているが、排水路は市街地のほぼ全域で現在もそのまま残り、使用されている。

江戸時代の大野城下はしばしば大火に見舞われ、その都度町家などの建物は大きな被害を受けているが、長近によって建設された城下の町割はほとんど壊されることなく、現在まで受け継がれている。大きな変化といえば、明治になって防火対策の火避地として六間通りと石灯篭小路が拡幅されているくらいである。

 

2) 城下町の構造

(1) 大野城とその建築

長近が築城した大野城は、平山城で、標高約250m、比高約80メートルの亀山山頂の本丸に天守がそびえ、その周囲に焔硝櫓や麻木櫓などがあった。ちなみに今の天守は昭和43年に鉄筋コンクリートでつくられた復興天守で、ほぼ同じ頃の天正期の遺構とされる丸岡城や犬山城の天守を参考にしてつくられたために、外観はいかにも古式である。しかし、金森長近が築いた天守は、これとは違って二階建ての建物が3棟連結した御殿風の天守であった可能性が強い(吉田純一「大野城天守について」日本建築学会大会学術論文梗概集 1997年)。本丸に続く、二の丸と三の丸は亀山の東麓(元の大野高校跡地、現在の駐車場)にとられた。ここには藩政を執り行ない、藩主の住居でもあった御殿をはじめとする多くの建物が存在していた。現在、駐車場の東端に旧百間濠の一部分がみられるが、この位置が城郭部の東端であった。なお、二の丸の入り日にあった二階建ての鳩門は、市街地の北西にある光明寺山門として移築され、現存している。また中丁の真乗寺には二の丸の北隅にあった不明門が残っている。

 

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