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4 岩瀬の石造物

 

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5 越ヶ沢十二社跡

 

(1)集落住民が神社の各室の機能をどのように認識しているか。

(2)建築資料を読み、仙田地区の神社・堂をつくった当時の人々がどのように認識しているか。

まず(1)についてである。多くの住民にって神社はお参りをしたり、氏子同士が集まる場ということしか認識にない。そのため各室の機能を正確に把握しているとは限らない。また集落に住む若い世代は農業をおこなわず、他地域に通勤していて、時間的余裕がない。そのため神社・堂とのかかわりも薄いのである。このようなことからこの(1)の方法は適切でないとした。

次に(2)についてである。実測調査のさいに得られた情報として文献資料が幾つかみつかっている。この中で本殿や拝殿等、具体的に部屋の名前が出てきているものは大倉十二社の寄附者芳名と小脇十二社の棟札だけである。小脇十二社は、本殿という具体的な部屋名がでていることから*形式IIと確認できた。大倉十二社では奥殿という部屋名がでているので*形式IIといえる。

この分類方法については、まだ文献資料が多く見つかっておらず、仙田地区内での全体的な比較が行えない。今後も調査がさらに必要となる。

過疎と仙田地区の社寺建築をテーマに過疎による社寺への影響と住民と社寺建築との関わりについて分析・考察をしてきたが、その特徴について考えていくうち過疎という社会状況が社寺建築に大きな影響を与えていることがわかった。最初にそれを感じたのは越ヶ沢集落の十二社をみたときである。この集落はすでに廃村となっており、空家が数件残るだけである。十二社は国道沿いにあるのだが、境内まで続く参道がすでになくなっており、社殿自体も崩れていた。これは過疎による影響がもっとも顕著に現れた例である。また住民と社寺の関わりについても過疎の影響が感じられた。仙田地区の住民は昔から農業を中心とした生活を送っており、豊作を願う祭事を盛大におこなう等、日常の身近なところに社寺があった。しかし近年、住民の農業ばなれが激しく、若い世代の人達はみな、会社通勤をし、時間的余裕がほとんどない。自ずと社寺とのかかわりが少なくなっていくのである。集落内の氏子のまとまりも、住民の他地域流出や高齢化によって薄れ、社寺の管理もされなくなる。実際、調査に行ってみて、社殿などの細工が破損していても放置されているところが多くみられた。このままでは過疎との相乗効果でよりはやく仙田地区の社寺建築が失われていくだろう。

この川西町仙田地区は有数の豪雪地帯であり、全国的に見ても各集落で維持されてきた社寺建築の価値は高い。今後、過疎がより進むことによって、仙田地区の社寺建築は失われていくことは確実である。それを打開する手だてとして、社寺が失われる前にその価値を調査研究し、仙田地区住民に理解してもらうことが必要になるだろう。

 

 

 

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