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米作

雪深い地である信濃川の河岸段丘をはじめとする川西町一帯は米作地帯であり、町も農家も農業協同組合も米作に力を入れ、基盤整備(P661.S42-49)、ほ場整備・かんがい排水事業を実行し、農業の近代化機械化を進めた。その努力の結果、この地の産米は日本一美味しい「新潟魚沼産コシヒカリ」「新潟川西産コシヒカリ」として名をなしている。川西町の水稲品種別の作付面積割合は、コシヒカリ91.4%、トドロキワセ4.3%、コガネモチ2.2%であって、この3種で97.9%を占めている。作付面積913ha、収穫量は4,720tである(平成9年)。なお農家数は、専業96、第一種兼業102、第二種兼業1,045、計1,243である(平成7年8))。

信濃川の河岸段丘から離れ山中にあって平地に恵まれない仙田地区の人々は、かつては農業と山仕事、そして出稼ぎ9)によって暮らしを立ててきたが、今はこの地も米作は盛んである。

8)「川西町町勢要覧-平成10版」

9)「川西町史」通史編下649頁

 

第2節 地場産業と職人

 

仙田村の人々は地場産業や会社経営などの面で幾つかの先駆的なことをやっている。これらを「川西町史」から拾い上げてみよう。背替えについては前にのべたが、蛇行して流れる河川をショートカットして、河川敷を水田に変えたのである。この面積は当地区の水田面積の10パーセントにも及んでいる。

 

仙田地区の年表(明治以降)

明治2年、田戸の山室屋創業。業務内容は、食料品・衣料品・薬品・雑貨類・農産物など小売、染色、縮織など多岐にわたった。ちなみに千手の孫六は明治6年の創業である。

明治6年、越ケ浜で生産された縮布は、織子27人で114反。この生産高は同年の越ケ沢の米の生産高の63%に相当するという。仙田村の縮布の生産は明治15,6年ころが最盛期で年額3000反、価格にして18,000円に達した。麻布織は仙田村で尺延物を多量に生産した。

明治6年、仙田校を創設する

明治8年、1月2日、田戸郵便取扱所開設

明治13年、田戸の押木良平県会議員に当選。仙田村を中心に国会開設運動起る

明治18年、田戸に巡査駐在所ができる

明治21年、仙田村岩瀬に小規模な座繰りの製糸工場が生まれ、中魚沼郡内農家の注目の的となった

明治22年、市町村制の施行,仙田村誕生。戸数902,人口5710,県内でも比較的大村

明治31年、仙田全村に赤痢流行、死者62人

明治42年、11月1日、赤谷有限責任信用組合、岩瀬有限責任信用組合産業組合

明治44年、仙田村の養蚕戸数408、反別42町8反。戸数はもっとも多く反別は上野村に次ぐ

大正9年、仙田に大信自動車株式会社が旅客用のフォード車を導入し小千谷までの運転を開始

大正10年、岩瀬の登坂邦雄、貨物自動車の認可を得る

大正12年、中仙田の佐藤奥松が沢田屋貨物自動車を開業

大正12-14年、仙田村に電灯がつく

昭和2年、「官線十日町鉄道」が越後川口・十日町間を全通

昭和4年、中仙田の小林曽七タクシー営業(川西地方初のタクシー)

昭和10年代、自家用運搬用具リヤカー登場

 

地場産業と農業

1 織維産業

川西地方は昔から織物が盛んであった。村々の女たちは、豪雪の長い冬の間を日夜ひたむきに織り続けた。

縮の生産、養蚕と製糸

縮布の生産は江戸時代後期に繁栄をきわめたが、仙田村は明治15,6年ころが最盛期ともいわれ、年額3000反、価格にして18,000円に達した。明治38年、越が沢36戸で24戸が縮布の生産にたずさわっていた。

 

 

 

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