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第三章

閉鎖された施設

カールスルンド

 

スウェーデンのストックホルム市の郊外ウップランドヴェスビイ(UpplandVäsby)に、最も多い時期で500人以上の知的障害をもつ人たちが暮らしていた「カールスルンド」という入所施設がありました。

1988年、この施設で暮らす人はだれもいなくなりました。大きな施設が完全に解体されたのです。これはスウェーデンのみならず、他の国々からも大いに注目された事実でした。


施設カールスルンドの案内看板

現在の街カールスルンドの案内看板

「カールスルンド」は1901年に、慈善事業家であるマリア・グランゾンさんが、当時白痴と呼ばれた子どもたちのために個人的に作った施設が始まりでした。8名の知的障害をもつ子どもと、4人の看護婦によって始められたものでしたが、1931年には42名の知的障害をもつ人がここで生活していました。

1952年、カールスルンドの経営はストックホルム市に引き継がれ、公営の施設となります。この頃には人員・規模ともに大きくなり、定員は170名を数える施設となりました。その後もカールスルンドの規模はどんどん大きくなり、1965年には522名の知的障害をもつ人たちがここで生活していました。

この頃には、学校、スイミングプール、体育館、医療施設、授産施設などさまざまな建物が施設の敷地内に作られ、すべての生活はカールスルンドの中で営まれていました。

 

このように規模が大きくなり、近代化されていったカールスルンドはストックホルム県では中心的な総合施設となっていきます。

そして、それまで市によって運営されていたカールスルンドは、1971年にはストックホルム県によって引き継がれ、県全体で運営される施設となりました。多くの建物が作られ、近代化されていった大きな施設カールスルンドは、一方で“知的障害をもつ人たちもできるだけ地域で住むべきだ”というノーマリゼーションの風の中で、その存在が疑問視されてきます。

1968年に「精神発達障害者援護法」(「旧援護法」)が施行されてから、カールスルンドで生活する人は年々減るようになります。それは、「精神発達障害者援護法」がノーマリゼーションに基づいたものであり、カールスルンドにおいても徐々に地域のグループホームヘ職員ごと移り住むようになってきたからです。いつしかカールスルンドは、知的障害をもつ人たちが施設からまちの中へ移っていくときのモデルケースとなっていました。

そうして、1970年代の初めから具体化され始めた施設の縮小と地域援助システムヘの移行に成果があったことにより、1976年ストックホルム県はカールスルンドの全面的解体の方針を決定したのです。この当時でカールスルンドには354名の知的障害をもつ人たちが生活していました。

1978年、施設解体のために編成されたプロジェクト・チームはストックホルム県の方針に基づいて、施設で生活している人たちの地域への移転計画を発表しました。

このような大きな施設解体のプロジェクトはスウェーデンにおいて、また世界においても初めてのことだと言われました。当然、施設で生活している本人、その家族、施設で働いている職員など施設にかかわる多くの人は、解体によってもたらされる影響を心配しました。

 

 

 






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