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第2章 中国西域(新疆ウイグル自治区)のシルクロード

 

1. 西域のオアシス路の3ルート

 

西域とは、中国の西方にある地域に対して中国人が使用した呼称である。範囲は時代によって異なるが、漢代には、タリム盆地周辺のオアシス都市国家群の「西域36ヵ国」をさした。西安を起点とするシルクロードは、河西回廊の武威、張掖、酒泉、安西といった甘粛地方のオアシス地帯をとおり、その最西端の敦煌から、天山山脈南麓のオアシスを辿る天山南路と崑崙山脈北麓のオアシスを辿る西域南路と森林と草原ルートの天山北路の3つのルートに分かれる。これらの道は、いずれも隊商を組んだ商人たちが苦難の中にも盛んに往来したキャラバン・ルートである。

天山北路: 敦煌〜哈密(ハミ)〜鳥魯木斉(ウルムチ)〜伊寧(イーニン)を経てカザフスタンなどの旧ソ連国内をとおりローマに至る

天山南路: 哈密(ハミ)〜吐魯番(トルファン)〜焉耆(えんき、カラシャール)〜*庫爾勒(コルラ)〜庫車(クチャ)〜阿克蘇(アクス)〜喀什(カシュガル)とタクラマカン砂漠の北をとおりパミール高原を越えローマに至る

* 敦煌〜楼蘭〜庫爾勒へ至る路も楼蘭が廃嘘になるまで存在した

西域南路: 敦煌〜楼蘭〜若羌(チャルクリク)〜民豊(ニヤ)〜和田(ホータン)〜*莎車(ヤルカンド)とタクラマカン砂漠の南をとおり喀什(カシュガル)で天山北路と合流しパミール高原を越えローマに至る

* 莎車からパミール高原へ出て西進する路もあった

天山北路と天山南路は、かつての隊商と彼らが率いた「砂漠の船」と呼ばれた駱駝にかわり、今日、トラック、バス他様々な車と人々が頻繁に往来している。今回、調査団は天山南路沿いにオアシスの道をたどった。西域南路の敦煌から楼蘭をとおり若羌(チャルクリク)に至る古のルート部分は、楼蘭が自然環境の変化や相次ぐ外敵の侵入で水利施設などが7世紀の初め頃に廃虚になり現代は交通路が存在しない。

 

2. オアシスについて

 

(1) オアシスとは

砂漠の中で水を得られて、その水を人間が積極的に利用して居住出来る地域を意味する。中央アジアの北部が草原の地、遊牧民の活動の場であったのに対し、南部のオアシスは定住農耕民の生活の場であった。今回、調査団が2,000?余を走破したタリム盆地のオアシス都市は水の利用の仕方によって次の二つに分けられる。(参照:中央アジアの歴史、間野英二著)

1つは、パミール山脈から注ぐカシュガル川、崑崙(コンロン)山脈から注ぐヤルカンド川、ホータン川の水を灌漑湖水路とか貯水をすることにより成り立つ、喀什(カシュガル)、莎車(ヤルカンド)、和田(ホータン)の例である。これらの川は砂漠に流れて消え去る。

もう一つは、氷河を抱く天山山脈からの雪解け水を、勾配を利用して人工地下水路で引い

 

 

 

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