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第3編

台湾の公務員制度

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序章 概説

 

1 歴史

台湾に関する記述が最初に見られるのは3世紀ごろのことで、秦、漢の時代には東鯤、後漢・三国時代の呉においては夷州と称されていた。この呉の時代の王が、夷州に兵を派遣し、数千人を呉に連れ帰ったとの記述が残っている。随の時代には煬帝が対外遠征を方々に試み、607年、部下を流求国(現在の台湾)に派遣し宣撫工作を図ったが、流求国は従わなかったため派兵し、数千人を捕虜にして凱旋、以来往来を断ったとの記述もある。唐代ののち、五代を経て宋代まで中原は戦乱に明け暮れ、沿海の人々の中には海を越えて台湾に避難する者も多かった。

元は海外経営に積極的で、二度にわたる台湾探検は効果がなかったが、澎湖を版図に収め、1360年に正式に澎湖に巡検司を置き、福建同安県に組み入れた。これが中国の澎湖統治の始まりである。また、13世紀から16世紀にかけては倭寇が盛んで、南台湾には倭寇の基地があった。

台湾本島の中国による統治は、明が1563年に台湾に巡検司を設けたことに始まり、16世紀後半は漢人の渡台が多くなった。一方、西欧列強の台湾を巡る動きもこの頃から活発になり、オランダ人は1622年に澎湖を占領した。そこで明はオランダ人に対し、澎湖を放棄させるが、オランダの台湾占領に明は異議を挟まず、オランダの中国貿易保証を申し入れ、合意が成立した。そしてオランダは1624年、南部台湾を領有した。

一方、スペインは1626年、基隆、淡水などを占有したため、オランダは1639年淡水のスペイン軍を攻撃したが失敗、1642年に漸く同軍を撃破して、スペインは台湾から引き揚げることになった。

これに先立ち、1630年頃福建省が数年にわたり大飢饉に見舞われ、海賊出身でその後、明の官位を得た鄭芝龍が開拓のため数万人を船舶に乗せて台湾に渡らせた。そこで台湾在住の漢人はこの時から漸次多くなり、村落を形成した。

1644年ごろ、満州の愛親覚羅が南下して清と号し、ついで李自成の乱で華南が兵火にさらされ、難民10万が台南に移った。オランダは開発の労働力として難民の受入を歓迎した。鄭芝龍はすでに台湾を去って、1646年には清に降伏した。

鄭芝龍の息子の鄭成功は軍を率いて故国の回復を図り、1658年南京に向かったが失敗した。そこで1661年25,000人をもってオランダ人占領下の台湾を攻略すべく、まず澎湖を占領した。さらに台湾本島に進攻した。同年12月、オランダ人は投降、ジャワへ引き上げた。

 

 

 

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