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文・暉峻創三

「陳國富の言葉と台湾映画のこれからを読みとくために」

 

★1 陳國富

 

陳國富(チェン・クオフー)。その監督第二作『宝島 トレジャー・アイランド』で日本でもお馴染みの彼は、批評家として、日本統治時代の映画から台湾ニューウェイブの同時代までを見つめ、その後映画監督へと転じた。

1958年生まれの彼が初めて書いた映画評論は、ブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』について。1981年のことだった。当時は、まさに台湾ニューウエイブの黎明期。気鋭の批評家としてデビューした彼は、ニューウェイブの波の中で、たちまちその最も精力的な擁護者の一人ともなる。そして侯孝賢、エドワード・ヤンらとは、個人的にも交友関係を築くようになった。侯孝賢とはしばしば一緒に映画館通いをし、エドワード・ヤンからは『恐怖分子』(86)の脚本・演出顧問として雇われもした。またその同じ年、台湾の実力派歌手・蔡琴(当時エドワード・ヤンの妻でもあった)のMTV『成人遊戯』の演出を、エドワード・ヤン、侯孝賢と共に手掛けもする。まだ共に打ち破っていくべき敵が、先輩がいて、台湾ニューウェイブの作家たちがそれを前にファミリーのように団結していた美しき時代。そのなかで基本的には批評家であった陳國富も、その一員であった。

そして89年。彼は『国中女生』で映画監督デビューする。そのデビューに当たっても侯孝賢が多大な助力を惜しまなかった。製作会社にとっては女子高生ものプログラム・ピクチャーという程度の位置づけにすぎなかったこの作品で、彼は早くも国際的に注目されるようになる。そのころ同じく監督として活動を開始していた葉鴻偉(『ファイブ・ガールズ・アンド・ア・ロープ』)らとともに、台湾第二世代ニューウェイブ時代の始まりが囁かれ、彼はその中心人物と目されていた。だが今でも第二の波を先頭に立って引っ張る重要な作品を生み出しながらも、どこかアウトサイダーであり、映画業界にどっかり根を張っているとは見えない彼の独自のスタンスは、この時から同じ。彼はデビュー作で注目されても、継続して映画監督業を続ける代わりに、映画雑誌「影響」の編集長として活躍するようになる。いつも映画の周りを回ってはいるけれど、いつも映画を作っているわけではない。本書インタビュー中でも彼は「映画業界への根回しなど全くしていない」「自分は、“アンファン・テリーブル(恐るべき子供)”だ」と述べているが、この常に半歩映画界から離れた立場が、陳國富の持ち味だ。

続く第二作が、侯孝賢が製作総指揮を手掛けた『宝島 トレジャー・アイランド』(93)。香港のスタンリー・クワン同様、基本的には女性映画の名手である彼の、これはただ一つ例外的に男性映画性濃厚な作品(主演は『憂鬱な楽園』の林強)。とはいえ、ここでどういう経緯でかヒロイン役を演じた香港女優ヴェロニカ・イップにとって、これはその最も素晴らしい出演の一つでもある。その二年後、彼は今日の台湾映画の女神・劉若英を「発見」。彼女のデビュー作『我的美麗興哀愁』(95)を監督した。陳國富=劉若英コンビ時代の始まり。本書インタビューにもある通り、陳國富は第四作『徴婚啓事』でも劉若英をヒロインに迎え、フィクションとドキュメンタリーの中間をいく――つまり今、いちばん魅力的でスリリングなジャンルの――新作を世に問う。

陳國富の一番の映画的師匠は侯孝賢ということになろう。だが、師とは対照的に、陳國富は『国中女生』から『徴婚啓事』まで、すべての映画において、自らの生活している場所である台北の今を舞台にし続ける。舞台にというよりも、むしろ主題だとすべきかもしれない。今日の台北という環境が、常に彼の創作の主たるインスピレーションの源でありつづけてきたことは、彼自身の言葉からも明白だからだ。例えば『宝島 トレジャー・アイランド」を作ったとき、こうコメントを寄せている。「台北はとても発達した近代的な都市だと考えられているが、私の経験から言えば、おそらくは世界で最も堕落した都市のひとつである。私がここに移ってきたのは19歳の時であるが、それ以降の15年間、ひどい無秩序と暴力、食欲と迷信、それにあたりまえの人間的な生活を尊重する姿勢の欠如に対して、私が絶望感を感じなかった日は一日たりともなかった」(『宝島 トレジャー・アイランド』プレス)。『我的美麗興哀愁』では「ある不安感のようなものを表現したかった。この台北の街の気分を撮りたいからだ」(『SWITCH』96年2月号)。そして最新作『徴婚啓事』では……、本書インタビューを参照されたい。

陳國富は、今、台湾で映画的に最も注目すべき試みをし続けている監督であることは間違いない。けれども、これまでもそうであったように、彼が張藝謀や陳凱歌、侯孝賢らのような評価を世界に確立することは決してないだろう。『紅いコーリャン』や『さらば、わが愛』『悲情城市』のような作品を彼が作るわけがないから(これも本書インタビューを読めば明らか)というのが、ひとつ。それに実際どの作品を見ても、彼がおよそ“まともな作品”“よくまとまった作品”と言えるものを撮れた試しはない。すべからく、どこかチープでヘンテコ。彼の手に掛かるとアート・ムービーさえB級ムービーと化す。けれどもそれゆえに僕たちはその新作をいつもドキドキしながら待ち続けるのだし、見ていてもいつも先のわからないドキドキを感じ続ける。

 

 

 

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