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官僚や知識人が国防問題を深刻に捉え、多くの警世の書が出版されたが、清朝政府は何ら関心を示さず、実行に移すことはなかった。しかし、1852年に太平天国の乱が発生し、鎮圧を命じられた曽国藩が、太平軍と戦うためには水軍が不可欠であり、水軍を新編しなければ戦えないと出動を拒否したため、急速に整備が開始され、1854年春には大小500隻の湘軍水師が新設された。しかし、江南地方から太平軍を駆逐するには、さらに増強する必要が生じたため、1860年には洋式中型艦3隻、小型艦4隻の購入と、これら艦艇を運行する乗組員の雇用交渉を、イギリス人の総税務司レイに依頼した。この申し出を受けるとイギリスは清国の費用で運用される、この艦隊で中国における自国の権益を守ることを意図し、英清連合艦隊の創設を画策、1863年10月にはオスボーン海軍大佐を司令官として、艦艇7隻を上海に回航した。そして、オスボーンを司令官とすること、指揮権はオスボーンが保有し、オスボーンが同意しない行動は、例え勅令でも応じないことを条件に中英連合艦隊の創設を迫った。この主権を無視した申し出に交渉は決裂し、これら艦艇の一部とイギリス人乗員の一部が清朝政府に雇用されたに止まったり、近代海軍の創設は実現しなかった。

その後、太平天国の乱が平定された1868年に、江蘇巡撫の丁日昌から大型艦6隻、中型艦10隻から構成される直轄艦隊の北洋水師、揚子江方面を担当する東洋水師、広州や広東方面を担当する南洋水師の3艦隊を整備すべきであるとの「海洋水師章程6条」が提出された。しかし、この提案は対露軍備を重視すべきであるとの意見も強く、官僚に握り潰されて朝廷に達したのは、日本が台湾に出兵した1874年であった。日本の台湾出兵に中国首脳の間には、ロシアの脅威や国内の反乱平定が急務である、と開戦に反対する陸軍重視の塞防派と、海軍重視の海防派に分裂し、戦うことなく「蛮狄小邦」と蔑視する日本に敗れ、賠償を支払いさらに琉球を放棄しなければならなかった。この屈辱に対する衝撃は大きく、政府部内には海軍の整備充実に異論をはさむ者は、もはや1人もいなくなった。清朝もこの屈辱に、先に丁日昌が提案した「海洋水師章程6条」を取り上げ、1875年3月には北洋・東洋・南洋の3洋水師案(80年代に入ると、北洋・南洋・福建・広東の4水師となる)を布告し、対日戦争を想定し李鴻章の准軍系の北洋水師の整備を優先し、北洋水師の整備が完了した後に南海水師などを整備することし、清仏戦争が起きる1884年までの10年間に、北洋水師が8隻、南洋水師が6隻、広東水師が1隻の外国軍艦を購入した。

しかし、これら船舶は各軍閥が統制なく各個に購入したため、船体や武器の統一も

 

 

 

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