第1章 日本の地域生活援助の実際
本人のニーズに応えて変わり続けるグループホーム
河野和代(若竹通勤寮 寮長)
はじめに
私たちの法人が平成元(1989)年に、グループホーム事業を始めた時は、いろいろな意味で大変でした。
まず、家族に理解してもらうことから始めました。
「せっかく、施設に落ち着いて暮らしているのに今更…」「失業して、収入がなくなった時の暮しの場の保障はあるのか」「再び施設に戻ることは可能なのか」「年老いたらどうするのか」等々…。こういう点に関しては、家族との信頼関係だけに頼っていたというのが実状です。
次に、法人内部で意見が一致するまでに相当の努力を要しました。
職員数の少ない通勤寮でのバックアップは困難であるとか、財政問題をどうするのか…。いろいろあったものの、最終的には県の後押しもあってやっとスタートにこぎつけました。
住居さがし、世話人さがし、援助の内容、勤務形態、労働条件をどうするか、苦労は多かったのですが、「地域で暮らす」ことに対する「国からの援助」という意味で、私たちは燃えていたのです。
入居希望の本人たちは、自立していく(自分のことが自分でできる)人たちを横目に、できない自分たちは、暮しの場を地域に求められないのではないか、とあきらめてもいた時代ですから、誰々さんと誰さんはグループホームの候補というだけで大喜びでした。当時、住居については、私たち援助者側が決めることが当然でした。本人が選ぶという以前にグループホームとして使う住居さえ、貸してもらえない時代だったのです。今振り返ってみると隔世の感があります。
10年たった今では、そのグループホームに住みたいかどうか、本人の意思確認を大切にします。そして一緒に住むメンバー同士の確認もあります。住居もさがしはするけれど、本人の了解を得て契約することになります。世話人の勤務内容についても彼らとの話し合いが必要であると考えています。
手続上は、些細なことのように聞こえるかも知れませんが、昔、入所施設職員として働いた経験から考えると、私自身にとっては、大きな変化でした。今は本人の意思を確認するのは当たり前ですが、以前は、そこを抜いていて当たり前だったのです。
今では、彼らは私たち援助者に異議を唱えます。そんな事柄の中には言われてみて、はじめてわかるようなことも多いのです。こちらに落ち度があって、「ごめんなさい」と謝ることもしばしばです。逆に彼らが誤解している場合も多く、「これこれしかじかだから、こう思う」と伝えると、彼らは納得してくれます。
最も変化したのは、本人と援助者の「関係」だと、思います。
何はともあれ、グループホームが始まったことによって、単に住む所や人数の問題だけではなく、障害をもつ人が街の中で「市民として暮らす」ことの意味あいが深く追求されることになったのは、非常によかったと思うのです。
結果的に、私達のところでは、現在、9ヶ所のグループホームがあります。1ヶ所4人で、合わせて36人の人たちが、グループホームの住人として地域で暮らしている、ということになるはずですが、実はちょっと違うのです。結果はもっと複雑、多様なのです。ここには「普通の暮し」を追求していけば、究極的にこうなるのか、という姿が余すことなく出てきています。