たんじゃないですか。だいたいそれで終わるんですよ。それが最近ではいきなり「ドン」と爆発する。これはおかしいと思いますね。
問われる教師の主体性
土野 お二人のように、実際にいろいろなことを体験し、実践していらっしゃる方はあくまでも少数でして、今の詰め込み教育システムでは、日本の社会はそんなに明るい展望が開けているとは思えません。受験戦争は、日本の教育の荒廃の象徴ですが、この弊害が言われ始めて、もう何十年も経っていますね。
樋口 ただ日本の教育のいい面は、上昇志向というか努力すれば上へ行けるところだと思う。たとえば英国へ行ってタクシーに乗り、あるハイスクールの横を走りますね。運転手に「あの学校はどういう学校なんだ」と聞くと、「私には何も関係ありません。私たちの子どもも行けないし、私たちの階級の者はひとりも関係ない」という答えが返ってくる。そういうところは日本にないんですよ。その辺はまだ救いがあると思います。
加藤 「貧富貴賤に差を設けず」というのは、明治政府以来、いや徳川時代からありますね。
土野 寺小屋ができた頃からですね。
加藤 かなり優秀な人材は、町人の中からでも、農民の中からでも士分に取り立てたりしています。
土野 先ほど樋口さんがおっしゃった「山谷」での「体験学習」は、子どもたちにとって大変意味のあることだと思います。先日、加藤先生からも、自費でタイに行って井戸を掘るなどのボランティア活動をしてきた大学生のお話を聞いたことがありました。そういうことが大学の単位に置換できるという動きはないのでしょうか。
加藤 それはいくらでも可能だと思いますよ。あれは、学習院の川嶋辰彦先生のゼミの話なんです。紀子さまのお父さんですね。
土野 学生は何人ぐらい行ったんですか。
加藤 一〇人ぐらいですね。おそらく、川嶋ゼミはあの活動で単位を取らせていると思います。こうしたことは、大学が認めれば可能ですし、教授が「こういうことをするから単位にする」と言えばいいわけです。
これは、教授の主体性の問題なんですね。大学教授というのは、こうしなくてはいけないという規則がないので、案外自由なのです。そういう試みというのは、学生の側よりもむしろ教員の側から出てくるべきものですね。ですから、教育の荒廃というのは、生徒の荒廃というよりも教師の荒廃なのかもしれません。
樋口 加藤先生のおっしゃる通りだと思います。教育というのはやはり、もともと自由なところからいろいろ引っ張り出してくるわけですからね。生徒の素質だけではなくて、教師の素質も引っ張り出していく必要があるのではないでしょうか。