日本財団 図書館


太平洋戦争中、軍需物資を満載した輸送船団はアジア、太平洋各地にむけて移動した。しかし、太平洋のいたるところにアメリカの潜水艦が出没していたから、いつ魚雷攻撃をうけるかわからない。そこで輸送船団の周囲を帝国海軍の軍艦がとりかこみ、それを護送して航海した。武装した軍艦がいっしょだから、商船はひとまず安心というわけ。これを護送船団」という。

現在、あちこちでいわれている「護送船団方式」というのはこの戦争中の船団組織を日本の民間企業と政府の関係になぞらえたものにほかならない。民間企業はつねに危険を背負っている。業績があがれば利益を期待することができるが、ちょっとしたまちがいから減益、倒産といった事態をも覚悟しなければならない。そうした危険を回避するためには強力な「護送」があるにこしたことはない。だから、「政府」ないし「官」の保護や援助をうけて航海するほうが安全だ。政府がうしろについていてくれるのなら、とにかく生きのびてゆくことだけはできる。それが「護送船団方式」というふしぎなシステムの語源なのであった。

じっさい、日本社会のあらゆる領域で企業、すなわち「民」と政府、すなわち「官」とはかつての輸送船と海軍艦隊のような関係におかれている。いや、「おかれている」というよりも、両者それぞれになんとはなしに「民」と「官」はそんな関係のものなのだ、という錯覚におちいっている。業界はその安泰をねがい、個別企業はその利益をもとめる。それはあたりまえのことだが、みずからの責任と努力でその目的を達成するのでなく、「護送」してくれる艦隊、つまり「官」の保護をもとめる。みずからの利益になるような法律をつくってもらったり、あるいは受注の便宜をはかってもらったり、ありとあらゆる知恵をしぼる。それが極端になると接待になり、贈賄、汚職にまでつながってゆく。このことはさいきんの新聞を読んでいたら毎日のようにおめにかかる日常茶飯のことになってしまった。

たとえていうならば、これは商船団の船長たちが海軍の艦長や艦隊司令官のご機嫌をうかがい、どうぞ護ってください、といってつけとどけをしている風景に似ている。あるいは、もっとどぎつい比喩でいうなら、商店街、とくに風俗営業店の店主たちが地回りの暴力団に冥加金を支払っている風景にちかい、といってもよい。これが日本の「官」と「民」が「癒着」しているといわれるゆえんである。この悪縁はなかなか切れそうにもない。

とはいうものの、日本国の名誉のためにいっておくと、こうした「官」と「民」の関係はべつだん日本独自のものではない。古典的には英国の商人たちは国王や女王の「特許状」のもとに特権を享受していたし、その背後にはさまざまな政治的工作があった。現代の欧米諸国でも政府の要人と、たとえば軍需産業とのあいだではかなりの「官民癒着」がある、とわたしは耳にしている。なにしろ、いくら国民がえらんだとはいえ、政府には権力があり、社会的行為を規制する法律や規則の執行力がある。「宮」と「民」とどちらが強いか、といえば、おおむね「官」のほうが強い。しかし、日本のばあいには、それがひどすぎる。露骨でありすぎる。そして官民癒着の事例があまりにもおおすぎる。

その結果として、日本の「民」は「官」なしに自主的な発想ができなくなってしまった。このごろになってはじめて目にした「MOF但」などという奇妙な「職種」まで誕生してしまったのだから、なにをかいわんやである。「民」がかくのごとく卑屈になれば「官」はますます尊大になる。その悪循環のツケがいまわれわれの眼前にある。

 

しかし、ひるがえってかんがえてみると、そもそも「民」というのは「自由」がその本領であったはずである。その「自由」の最低限の限界を設定するためにもろもろの規制や法律があるのであって、それに抵触しないかぎり、自由奔放に発想し、事業を展開するのが民間組織なのである。そのうえ、「民」の代表である企業は熾烈な「競争」という場のなかで活動するのがその「生きがい」である。同業他社よりいい製品やサービスを提供することで利益をあげれば、株主にも有利な配当ができるし、社員には他社より潤沢なボーナスを支給することもできる。その営業成績がさらに向上すれば、あらたな設備投資でその企業の地盤を強化してゆくことも可能だ。それが企業人の誇りであったはずである。そしてその組織の頂点に立つ経営者の力量がこうした経営能力にあることはいうまでもない。

はじめにひきあいにだした商船の事例になぞらえていうと、経営者は船長である。多少の危険は覚悟のうえだ。だいじなのは他船を抜いて、できるだけ

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION