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「人生なんぼのもんや」

田中正一

大阪弁に「なんぼ」という表現がある。関西育ちの私が、Y紙(世界最多発行部数?を誇る新聞社)の東京本社に就職した三十数年前には"花の銀座"では通じなかった。

物の価値判断を示す「いくら」、英語でいう「ハウマッチ」である。それが、全国的に意味を理解してもらえるようになったのはテレビという媒体のお陰である。

自分流に生き過ぎて、壮絶な死を選ぶほかなかった吉本興業の○○やすし。

「われ(お前)なんぼのもんじゃい」の漫才ネタは、前の「もん」が「者」になって相手を威嚇する啖呵(たんか)であった。

解釈はいろいろあるだろうが、「俺に歯向かうには、お前はまだまだ小物、コモノやでー」と軽蔑を込めて椰綸(やゆ)する言葉、が適切でないか。

もっとも、ある世界では既にこれを常用していたようだが、やすしの場合、精いっぱい自分を大きく見せようとしながら逃げ惑うエリマキトカゲの滑稽さが受けた。舞台だけならよかったが、実社会でも使った(過ぎた)のはやはり拙かった。

その頃「俺はなんぼのもんや」と考えたことがある。友人と論議したこともある。若かったし"猛烈記者"の実績のあった当時は、簡単に答えが出せた。

定年退社から干支が一回りして十二年。最近また「なんぼのもん」を考えるようになった。困った問題ほど深刻ではないが、フッと頭をかすめる。その回数が日々増えているようにも思える。そして、これで良かったんかいな」と反省が加わるようになった。

解決法?。若年の頃、大学野球の著名監督とのインタビューで「男の、人間の値打ちはなあ、カンオケの蓋を閉めたときに決まるんや。自分で決めるもんやない。人が決めるんや」という言葉を思い出してから、気が楽になった。

いい点数が貰えるとは思わないが、自分なりに手応えはあると、考えるようにしている。

神頼みをしたことはあるが、私は無宗教。戦前の小学校二年から数年、仏教系の日曜学校に通ったことがある。もちろん幼い私の意思でなく、母の願いである。

『如来大師の恩徳は……』と今も唄えることより、訓練とも思えた写経によって筆を持つのが少しも苦にならないことである。これは随分役にたったし、有り難いと思っている。

学徒動員から戦後のドサクサ。もちろん両親の庇護はあったが、自分なりにうまく擦り抜け、潜り抜けてきたものだと思い返す。

宗教と関わる余裕がなかったと言うより、そんなことは眼中になく馬力の掛かった気鋭の時代である。

自分の意思の介入がなく生まれてきたのだから、終焉には自分の心を込めたいものだ。大袈裟な思いだが社会と戦っては来たが、それに酬いる動きはなかったと反省する。目まぐるしい都会生活では思い付かなかったかも知れないが、第二の人生を熊本に求めて大阪から移り住んだ今、殊勝な考えに急転したものだと自分でも驚く。

"献体"に結び付くのに、何の抵抗もなかった。妻も快く賛同してくれた。心が萎えているのではない。心身ともに至って健康だ。無病息災を誇っていた友が、コロリと逝ってしまってもう五年になる。私の四週に一度の熊大病院通いは、一病息災を願うためである。これまで六十七年、生きて来たが、これからは生きて行くと決意を新たに頑張るつもりでいる。物心が小さくても安定しているから、欲もない。天職と考えた仕事に燃え尽きた心を癒しながら、好き勝手なことをして日々を送り「格好を付ける」のでなく、ただ静かに終焉を待つのみである。

人間が物体でないことは百も承知である。だが、理科系育ちの私にはおおよその見当はつくし、それでいいと納得している。カンオケに蓋のあと「お役に立つ」ことによって、もうひと花咲かせる。しかも、清く手際よく始末してもらえるとならば、これほど結構なことはない。もちろん反論はあるだろう。もっと真摯に考えろ、とお叱りもあるだろう。でも私は既に結論を出しているし、変えるつもりは毛頭ない。

交通事故死などはお役の対象にならないと聞く。成願のために、あと何年かは精進を続けなければならない。「人生なんぼのもんや」と考えながら……。

 

 

 

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