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妻の献体

北林 勲

妻トキ(会員番号一二六二)が息を引きとったのは平成九年三月三日、桃の節句の日。鳴海病院のICUにおいて、午前五時三十分でした。かねてより私共夫婦二人で献体登録はしていたものの、いざとなってみればただとまどうばかりでしたが、以前から万一のことも考えて山口理事長宅の電話番号は控えていたので連絡したところ、折返し解剖学教室の小泉先生という方から電話あり、病院にお迎えをいただいて献体したのでした。私も一緒に参りましたが、医学部の霊安室には既にきれいなお花がいっぱい飾られていて、同伴の親戚もよろこんでくれましたが、私もそのとき、この寒い折、わびしい二人暮しの自宅へ連れて帰るよりも、ほんとによかったと思ったことでした。

結婚したのは昭和十六年のとし。当時私は松尾鉱山の採掘現場の係長をしていましたが、其処で医師をしていた私の伯父の許で看護婦として勤務していた妻と、伯父のとりなしで縁が結ばれて、数えてもう五十六年の二人の生活でありました。

結婚して間もなく赤紙がきて満州の黒河省に出征し、復員してきたのが同二十年の十月。すべてが様変りした終戦直後のこととて、さりとて妻子ある身のことぶらぶらしてもいられず、職さがしの中に目についたのが警察官募集の広告。早速応募して採用されたのでしたが、当時は青森は空襲のため焼け野原で、黒石の公会堂が警察学校。ここで四ケ月の教習を受けて弘前警察署に勤務。以前にも一度、この弘大しらぎくに寄稿したことがあったと思いますが、今の弘前市枡型交番署のあたり、当時はただのさびれた広い場所で、まっすぐ行った坂のあたりから小栗山の辺りまでは昔の、参勤交替の大名行列の通る松並木でありましたが、附近の住民からの要望で駐在所が設置されたのがたしか同二十三年のこと。その初代の駐在官でした。

やがて公安関係の方に移り、鰺ケ沢、深浦、板柳、十和田、黒石と転々と移ったその陰に、物資不足のあの時代、それは警官の妻といえども例外ではなく、妻の負担とその苦労は今にしてしのばれます。

結婚してからは看護婦の仕事はやめて専業主婦として尽してくれたのですが、私の職業柄、深更一時、二時過ぎて帰宅しても決して不平不満をのべる妻ではありませんでした。いつも身づくろいは端正で、健康にはよく注意していたのですが、乗りものには弱く、ために、よそのご夫婦のように旅行やドライブなどと、生活を楽しむ機会がなかったのが不憫に思います。

生活とは生命の燃焼だと思いますが、私の妻もその人生を燃焼し尽してその掉尾、献体を果したのですから、妻の為にも冥加であったと思っています。

 

 

 

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