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4  区役所の現場から

 

平成7年1月17日の地震発生以後の区役所の状況,職員の対応を見てみよう。

(神戸市「阪神・淡路大震災-中央区の記録 1995年-)

 

中央区災害対策本部と情報案内相談業務

総務課長  田 水   勉

 

1月17日(火)9時30分頃、中央区災害対策本部は福祉事務所内に設置された。

防災計画では、災害対策本部は4階の総務課に置くこととなっているが、総務課のある4階は区庁舎の中でも被害が大きく、総務課事務室は足の踏み場もないほどの惨憺たる状況であった。

この朝いち早く駆けつけた松岡副区長(平成7.3.31退職)は、総務課の使用は無理であること、被害の大きさから区役所が今後災害対策の拠点となり、区役所に多くの人が来ると予想されること、3基あるエレベーターが全滅していることなどから判断して、比較的被害の小さかった1階の福祉事務所に災害対策本部を置くことを決定した。

10時頃災害対策本部長の区長が妙法寺の自宅から文字どおり徒歩で駆けつけたが、その時点で出勤できていた職員は30名程に過ぎなかった。私は西神から課員とともに車で明石を経由して国道を通って出勤したが、区役所に着いたのは午後2時過ぎで7時間近くもかかった。17日中に出勤できた職員は、区役所、福祉事務所、保健所を合わせて約400名いる職員のうち、86名であった。幸いにも電気は回復していたが、ガス・水道は不通、電話も一般回線は不通で内線のみが生きていた。

災害対策本部長の指示で、とりあえず課長以上の幹部職員は本部詰めとし、他の職員は学校避難所を中心に避難所の状況の調査に走った。また、福祉事務所職員には遺体安置所の開設が指示された。3時頃から被害情報や避難所情報が本部の窓ガラスや壁やボードに次々と張り出された。本部では市対策本部や関係機関へ救援物資の要請を行った。しかし、今考えると17日は本部もまだ静かなものだった。救援物資が午後になって2件届いたが、電話もかからず、区役所に来る人も少なかった。本部のテレビで市内の惨憺たる状況を見ることもできた。テレビが全市の被害状況を知る唯一の手段であった。本庁からの電話も余りかかって来なかったように思う。

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日が暮れるころから市民が本部を尋ねて来るようになった。食料、毛布、水などの物資の要望がほとんどで、中でも懐中電灯や乾電池がほしいという人が多かったと思う。また、区庁舎への避難者も数を増して来た。その後深夜にかけて、毛布、水、果物、握り飯など待ちに待っていた救援物資が次々に到着した。職員は総出で夜を徹してそれら物資の荷下ろし、積み替え、避難所への配送に当たった。

18日になると、救援物資を求めて市民が区役所へどっと駆けつけて来るようになった。本部はそうした人の対応で急に忙

 

 

 

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