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1. 人口政策の変遷

 

アジアで最も人口密度の高い国の一つとして、シンガポールは、人口計画プログラムを、全体的な社会経済開発戦略の一部として組み込んだ草分けだった。1960年代は、経済的社会的に困難な時代だった。

1965年の独立後、シンガポールは堅固な経済的基盤を確立しようと一所懸命だった。イギリス軍の撤退が、不安定な経済をさらに悪化させた。経済状況を考えると、人口増加の抑制の必要性は緊急課題だった。

限られた土地と経済的な資源、人口増加による需要拡大とのバランスをとるために、急速な人口増加を抑制しなければならなかった。

 

シンガポールの国家家族計画と人口プログラムは、1969年に開始された、人口プログラムとしてに着手し、各5カ年間(1969-1970、1971-1975、1979-1980)について野心的な目標が掲げられた。政府により、子供は二人までという規範が積極的に進められた。避妊具の入手は簡単になり、中絶と不妊手術が合法化された。これら全てが、この島中の産科および子供のための診療所のネットワークによって推進された。

プログラムの効果は、合計特殊出生率(TFR)の著しい減少により示された。たった20年間の短い期間内で、TFRは約70%減少した。

TFRは1965年の4.7人から、1975年には人口置き換え水準を下回り、1986年には史上最低の1.4人にまで落ち込んだ。人口置き換え水準を下回る傾向は続いており、人口予測では、これから30年以内にシンガポールの人口はマイナス成長となることが示されている。これは、重要な長期的な意味が示されている。つまり、高齢化する労働力、福祉およびヘルスケア支出の増加、若年労働力の不足、国の活力の減少である。

 

シンガポールは、過去10年間にわたる成長を通して、資源の制約に見合うために人口増加を政府が管理することに対してあまり批判的でなくなっている。また、拡大する経済が、より大きな人口基盤を支えることができるということもはっきりしている。

さらに、経済成長と共に、バランスのとれた年齢構成と穏やかな人口増加を維持することが、現在の政策の関心となった。人口と開発の重要な問題が、違った形と方向に向かっており、1987年、政府は、人

 

 

 

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