日本財団 図書館


(11) ウクライナ語ではセーリシチェ、ロシア語ではパスョーロク。

(12) V.I.Kravchenko, Teritorial'nyi ustrii ta mistsevi orhany vlady Ukrainy (Kyiv, 1995), p.3.

(13) このため、19世紀から20世紀にかけてのウクライナ民族主義史学においては、ポーランド化したエリートを民族の「裏切り者」とみなし、「ウクライナの民族性は農民に宿る」とする民衆崇拝的な潮流が支配的となった。民衆崇拝的なところが都合が良かったので、この考え方はソビエト・ウクライナ史学にも継承された。史学史については次を参照:N.M.Iakovenko,Ukrains'ka shliakhta z kintsia XIV do sereduny XVII st. (Volyn'i tsentral'na Ukraina)(Kyiv, 1993), pp.15-17.

(14) ポーランドにユダヤ人が多かったのは、中世以来、西欧における差別に耐えかねたユダヤ人がこの地に移住してきたからである。ロシア帝国は、自分が分割したポーランドからこの問題を引き継ぐことになった。ロシア政府は、旧ポーランド領外へのユダヤ人の移住を許さない方針をとったため、ロシア帝国の西部諸県は、当時の世界で最もユダヤ人が集住する地方となった。地域の全人口の約15%、都市人口の約半数はユダヤ人であった。

(15) 次の史料より算出:Pervaia vseobshchaia perepis' neseleniia Rossiiskoi imperii, 1897 g.(S.Peterburg, 1904), t.16, pp.90-91; t.32, pp.98-99; t.8, pp.86-87.

(16) 母語を失いつつも国の主人となったという点では、ウクライナ人はアイルランド人に似ている。重要なことは、ウクライナの国家性は、20世紀を通して、ソ連構成共和国の外殻に覆われながら準備されたということ、つまり1991年に独立国家が突如誕生したのではないということである。

(17) 大ウクライナ人が「西部人(ザパデンツィ)」と言うとき、そこには軽蔑的なニュアンスがある。つまり、ルーマニア人がモルドワ人に対して抱くような感情(「亜流のルーマニア人」)を、大ウクライナ人もハリチナ人に対して抱くのである。

(18) インタビュー:ドロホブィチ地区国家行政府長官代理ホミツィキー、エヴヘン・ヤコヴィチ(Khomits'kii Evhen Iakovych)、2 IV 97、ドロホブィチ市。

(19) リヴィウは、13世紀、プロト・ウクライナ国家であったハリチナ・ヴォルィニ大公国のダヌィロ大公が建設し、その子レフにちなんで名付けられた。直訳すれば「獅子の町」という意味になる。そののち完全にポーランド化・ユダヤ化されたが、ソ連に併合されて以降、再びウクライナ化された。

(20) この問題については前掲拙稿「ロシアの地方制度」pp.27-28を見よ。

(21) たとえばポーランドの保守・教会系の勢力がそのような立場をとっている:仙石学「ポーランドの地方制度―地方制度改革に関する比較分析の前提として」『「スラブ・ユーラシアの変動」領域研究報告輯』No.25(1997),p.156。

(22) クリスティーン・I・ウォリッチ「旧社会主義国における移行期の地方財政」『自治総研』Vol.22 (1996),pp.6-7。

(23) なお、サラ・バーチとイーホリ・ズィンコは、ウクライナの東部分離主義が沈静化した理由として、次をあげている。?東部指導者は、自州の憲法上の地位改善のような長期的な利益よりもキエフからの短期速効的な譲歩を求めざるをえない立場にある。?東部指導者自身が改革的な上層指導者と、議会に影響力を持つ左翼的・保守的指導者に分裂しており、クチュマはこの分裂を利用することができる。?東部の工業は、巨大な資本投下と食糧・消費財の地域外からの大量搬入を求める体質を有しており、そのため中央政府に著しく従属している。?ロシア連邦が東部分離主義を支持していない。?チェチェン戦争が反面教師の役割を果たした。?1994年選挙の結果、東部指導者が中央政府にかなりの程度組み込まれ、他方、西部民族主義者の凋落が明らかとなったので、東部が分離を求める必要がなくなった(Sarah Birch and Ihor Zinko,"The Dilemma of Regionalism," Transition, Vol.2, No.22, November 1996, pp.22-29 and 64; in particular, pp.25 and 64)。

(24) 連邦主義の代表的な論客として、大統領顧問でもある V・B・フリニヨフをあげることができる。次を参照:V.B.Hrin'ov,Nova Ukraina: iakoiu ia ii bachu (Kyiv, 1995), ch.3.

(25) 前掲拙稿「ロシアの地方制度」pp.33-34を見よ。

(26) 次の拙稿参照:"The Concept of 'Space' in Russian History--Regionalization from the Late Imperial

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION