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ィー体制の成立であった。ドロホブィチ地区にとって重要だったのは、3月革命、1992年のペトルシャク体制の成立であった。ラデヒフ地区にとって重要だったのは、同じく3月革命、1992年のシコルスィキー体制の成立、1994年のオスタプチュクの権力復帰であった。要するに、州や地区が自治体であるか、国の機関であるかということよりも、誰が州、地区の指導者なのかということの方がはるかに重要なのである。

指導者のパーソナリティーを見ても、本稿に登場した諸人物は、我々がよく知ったロシアの地方指導者やリチャード・デリー(シカゴ市長、1955-76)などに比べれば、多少は洗練され控え目であるかもしれないが、やはりボスであり、ウェーバー的な官僚でも、民主的な代表でもない(もちろんこれは、悪いことというよりも良いことである)。逆に言えば、だからこそ、公務員集団がほとんど2年おきに地方公務員になったり国家公務員に戻ったりするような事態が地方指導者の抵抗を受けることもなければ、統治の混乱を生むこともないのである。

加えて、リヴィウ州の特殊事情としては、そこにおける政党政治が(少なくとも1995年頃までは)1990年3月革命で下された人民の審判の枠内で展開されてきたことがあげられる。政策・理念のスペクトラムが狭かったことにより政党システムはかえって発達したが、当然の帰結として、政治的競争の性格はいっそう個人的な性格を帯びることになったのである。なお、「ルフ」が、ムィコライフ地区からドロホブィチ地区にホミツィキーを移す、ドロホブィチ市ソビエトから同地区ソビエトへペトルシャクを移すなどの形で、ノメンクラトゥーラ機能を果たしていることは注目される。

本稿が検討した二つの地区においては、1994年選挙が地方権力の正当性を保障する上で決定的な意味を持った。ドロホブィチにおいては、1992年のペトルシャクの大統領代表への強引な任命いらい続いたモヤモヤした状況を選挙が清算したし、ラデヒフにおいては、選挙がオスタプチュクの名誉を回復した。1998年の政治危機に際して、エリツィンは武力対決の道を選び、クラフチュクは繰り上げ選挙を選んだわけであるが、後者の方が、民主的正当性という点のみならず政治的功利主義の見地からも、民族民主派政権に利益をもたらしたことは強調されてよいだろう。まんいちクラフチュクがエリツィンに倣っていたら、独立ウクライナはこんにちおそらく存在していないだろう。

やや逆説的だが、その反面では、ウクライナの地方政治において代議機関=ソビエトが何の役割も果たしていないことを本稿は示した。ロシアの地方議会がクーデター体制期においてさえそれなりに敬われる存在であり(70)、1995年以降の地方自治復興ブームの中でいっそう重要性を増しているのとは対照的に、本稿で扱ったリヴ

 

 

 

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