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オスタプチュク執行委員会議長にとっての転機は1992年であった。この年の3月に地区大統領代表が任命された際、順当な候補であった彼を押し退けて、ソビエト執行委員会教育部長にすぎなかったペトロ・シコルスィキーが大抜擢されたからである。この任命劇は、ドロホブィチにおけるペトルシャクの任命のように政党がらみのものでさえなく、シコルスィキー支持者のキエフへの裏工作の結果であった。シコルスィキーは、リヴィウ州コルホーズ連合会の会長と同村の出身であったが、この会長は、リヴィウ大学出身の高名な物理学者(科学アカデミー会員)で、しかも有力な最高会議代議員でクラフチュク大統領とも近かったイーホリ・ユフノフスィキーと友人であった。そこで、この会長は、ユフノフスィキーを通して、シコルスィキーの任命を大統領に働きかけたのである。つまり、この人事は、州指導者のチョルノブィルやダヴィムカさえ頭越しされたものであった。

オスタプチュクの側にも、ラデヒフ地区にある砂糖工場の民営化に絡んだ意見対立のため、権力から外される理由があった。この砂糖工場の長は、共産主義時代においてはリヴィウ州共産党委員会の次期第一書記の候補にも教えられたほどの有力人物であつたが、共産主義が倒れると、今度は工場を民営化して自分のものにしようと画策し始めた。これにまつわるさまざまな違法行為を知るオスタプチュクはこの民営化に反対であったが、砂糖工場長は地区ソビエト内にロビーを形成し、議長のヤンツールもこのロビーを支持した。その結果、オスタプチュクは、「国策である民営化に消極的、ソビエトとの関係も悪し」というレッテルを貼られてしまったのである。後に、この民営化はやはり違法なものであることが証明され、上述の工場長は、ウクライナ南部のムィコライフ州にある同種の国営砂糖工場の長に左遷させられたのだが、1992年においてはオスタプチュクの旗色は悪かった。

地区の大統領代表になりそびれたオスタプチュクは、2か月間失業した。その後、自分の会社を創ることで失業を免れ、やがて自治体資産フォンドの長にリクルートされた。オスタプチュクの再浮上のチャンスは、失脚の約1年後、1993年4月に訪れた。地区ソビエト議長のヤンツールが「指導マナー上の問題から」ソビエトに不信任され、それに替わってオスタプチュクが選ばれたからである。1994年のソビエト議長選挙は、以上の泥試合めいた権力闘争に決着をつけた。第1回投票でオスタプチュクが56%の票を獲得して、決戦投票を待つまでもなく議長に選ばれたからである。次点候補としては地区裁判所長が32%の得票、現職であるシコルスィキーは8.5%の票しか獲得できなかった。これにより、1992年春、大統領代表としてシコルスィキーに白羽の矢が当たったのは根拠薄弱であったことが証明されたのである。選挙敗北後、彼は元職である教員に戻り、地区内のある国立高等中学校(リツェイ)の校長となった(69)。

 

 

 

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