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しばその発端となるのは、修復されつつある教会の所有権問題であり、また教会利用をめぐる衝突(教会数の不足から、しばしば教会は宗派交替で利用されているのだが、そのローテーションがうまくいかないことが多い)である。クラフチュク大統領時代の強引な宗教政策が住民間の反目を強め、物理的な衝突すら生んだので、こんにちでは地区行政府指導部も-モスクワ総主教座を「モスクワの手先」と依然疑いつつも-「静謐がいちばん大切」というスタンスをとらざるをえなくなっている。

1990年3月の地方選挙の結果、ドロホブィチ地区ソビエトには60名の代議員が選出された。そのうち明白な民族民主派は14名にすぎなかったが、議長選挙において中間派代議員が民族民主派に投票したため、28票・対・27票の僅差で、民族民主派のタラス・メトィクが共産党候補を破った。メトィクは、ドロホブィチ市・地区新聞『ソビエトの言葉』のコレスポンデントであった。このような地位にある者は通常は共産党員であるが、メトィクの父はウパであったため、入党を許されなかったのである。副議長には、隣の地区であるムィコライフで中等学校のドイツ語教師をしていた、「ルフ」の活動家ホミツィキーが選ばれた。聖職者の子であったホミツィキーは、本来ならば高等教育さえ受けられないはずであったが、出自をごまかすことによって大学を出、ドイツ語の教員を20年間務めたのである。つまり、ある程度は政治的・行政的な仕事に慣れていたメトィクとは違って、ホミツィキーは典型的な人文インテリ上がりであった。折から、ゴルバチョフ末期の物不足対策と西側からの「人道援助」物資の分配という神経をすりへらす仕事が新生ソビエトの肩にのしかかつた。慣れないストレスからホミツィキーは出勤拒否症にかかりそうだったのだが、彼の所属政党である「ルフ」が「お前が辞めたら、共産党員がまたその席に座るぞ」と発破をかけ、任務放棄を思いとどまらせたのである。ホミツィキーは、その後、1991年の2度の国民投票、大統領選挙、1994年の国政選挙・地方選挙、つまり全ての選挙・国民投票において地区選挙管理委員長を務めた(66)。

なお、上述の地区ソビエト第1会期は、行政経験を尊重して、執行委員会議長には現職(つまりノメンクラトゥーラ)のユリアン・ラガニャークが留任することを許した。再選後のラガニャークは民族民主派が支配するソビエトの指導に逆らうことはしなかったが、1990年末には辞意を表明した。これは、ちょうどソビエト議長とソビエト執行委員会議長の兼任方針(既述)が提起された時期であり、順当に行けば、ソビエト議長のメティクが執行委員会議長を兼ねるはずだったが、ここで州権力も絡んだ裏工作が行なわれた。リヴィウ州検事が、ドロホブィチ地区検事をソビエト執行委員会議長候補(兼任方針の下では同時にソビエト議長候補)に推薦し、州ソビエト議長チョルノヴィルも事情をよく知らないままに、これに同意したのである。改選のためのソビエトは翌91年上月に招集されるはずであったが、予想されるメテ

 

 

 

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