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1993年以来の政治危機の結果として国家の存続そのものが危ぶまれる雰囲気の中で行われた1994年選挙は、ハリチナの世論が最も右傾化(民族主義化)した出来事であった。民族主義者(ホルィニ)・対・極端な民族主義者(ゼラ)という「右・右対決」の構図は、ハリチナの1994年の諸選挙に典型的なものである(61)。選挙の結果、ホルィニは有効投票の39%、ゼラは22%を獲得した(選挙は1回投票制に基づいて行われ、決選投票はなかった)。なお、ダヴィムカは、リヴィウ州国家資産フォンドの長の座に退いた。

ホルィニ「州知事」の2年半は、リヴィウ州にとって一種の停滞期であった。彼には、チョルノヴィルのカリスマ性も、ダヴィム力の行政手腕もなく、「キエフの代理人」でしかなかった。もちろんクチュマにとっては、改革意欲旺盛で、国民の人気において大統領を凌駕しかねない東部・南部ウクライナの何人かの傑出した「州知事」と比べて、ホルィニは扱いやすい指導者であっただろう。ホルィニ下で、リヴィウ州の経済状況はウクライナ全土のそれを越える速度で悪化した。「反共主義者のホルィニは、ノメンクラトゥーラ出身の東部『州知事』と比べて、市場経済への移行において成功していないではないか」と言って、州の左翼勢力がホルィニを批判するという、半ば冗談のような構図が現出した。こうした中で頭角を現したのは、ホルィニの代理の一人であったミハイロ・フラディー(1952年)であった。彼は、旧体制下で、州南部のストゥルィー地区において一介の獣医からコルホーズ議長を経て地区農工連合議長にまで出世した人物である。1990年春の地方選挙に際しては、自身の共産党への帰属を公言して地区ソビエトに当選し、そのまま地区ソビエト執行委員会議長となった。ダヴィム力大統領代表体制の成立とほぼ同時に(1992年春)リヴィウ州国家行政府長官代理(農工コンプレックス問題担当)に抜擢された。フラディーはそのままホルィニ指導部に居残ったが、「州知事」よりも目立つ存在となってしまい、リヴィウにいたたまれなくなった。そこで、1996年4月には中央政府に転出して、内閣農工コンプレックス部長に就任した。

リヴィウ州におけるホルィニの支持率が低下するにつれて左翼は活発化し、ウクライナ社会党(党首は最高会議議長のオレクサンドル・モローズ)が「ルフ」、ウクライナ共和党に次いで州において第3位にまで支持率を伸ばした(62)。1997年に入って勢いを増した州民の抗議行動に押される形で、2月6日にはホルィニは州国家行政府長官職を辞した。彼に替わってフラディーが長官に任命され、キエフから帰還したのである。

フラディー「州知事」下での副知事(長官代理)の構成は、次の通りである。?企業家(株式会社社長)から直接リクルートされたものが2名(第一代理と農業担当代理)、?リヴィウ獣医大学で勤務していた経済学者で、ホルィニ体制下で州国家行

 

 

 

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