日本財団 図書館


党委員会ではなくもっぱらソビエトに請願するようになった<補注>。1991年8月クーデター未遂事件に際して、共産党州委員会は公式には態度表明しなかったが、そのビューローは、「非常事態国家委員会」からの指示を下部党委員会に伝達する文書(53)を地区・市委員会に送付した。この文書は、地域の「ルフ」活動家などによってすぐに摘発され、リヴィウ州党委員会がクーデターに協力的だったとの証拠物件とされた。

 

<補注>ドロホブィチ地区国家行政府ホミツィキー副長官は、共産党側からの「最後の反攻」の例として、次のような体験を語った。1991年6月、地元の第二次世界大戦参加者(ヴェテラン)が、新しく作られた戦没者記念碑の除幕式の開催許可を求め、当時、地区ソビエト副議長であったホミツィキーに式でのスピーチを要請した。西部親ソ勢力「支援」のために東部ウクライナでヴェテランが大量動員されているという噂がすでに立っていたので、身の危険を感じたホミツィキーは躊躇したが、当時のソビエト議長のタラス・メトィクは、「お前には雄弁術があるじゃないか」と言って、ホミツィキーを集会に派遣した。会場に行ってみると、予想通りバスが何台も連なって止まっている。除幕式参加者は、青黄旗をモチーフとしたホミツィキーの胸バッジを見つけて、「おい、バンデラ主義者(54)が来たぞ」、「このバッジは違法じゃないか」(国章としての法的根拠がなかったことを指す)と難癖をつけてきた。ホミツィキーにスピーチを頼んだ地元のヴェテランは既に誰かの背後に隠れており、姿も見えない。ホミツィキーが、自分のスピーチの中で、一通りの慰霊の言葉の後、「ところが、この歴史上の悲劇を利用しようとする勢力がいる」と述べたところで、集会は物凄い怒号を彼に浴びせかけた。よぼよぼの老人が歩み出て、杖でホミツィキーを叩こうとする図まで現出した。ホミツィキーは生命の危険さえ感じたが、会場付近の保養所の宿泊客がこの有り様を見つけ、大声で助けを求めてくれたおかげでことなきをえたのである。この出来事の後、地区ソビエト執行部は、騒ぎの発端となったヴェテランに対して「あんたには二度と集会の許可は出さん」と通告したそうである(55)。

 

ハリチナにおける1990年二月革命は、民族意識を高揚する点では大きな意義を持ったが、旧体制下のエリートの大半をパージすることにつながったため、統治効率の低下を生んだ。法律の素人を集めて資格審査委員会が組織され、それが行政官のみか裁判官に至るまでの去就を決めた。州ソビエト執行委員会においてさえ、当時の部長(zaviduiuchii)クラス以上の指導者の「80%」は、1990牛から91年にかけて解任されたと言われる(56)。実際、こんにちのリヴィウ州国家行政府の指導部には、1990年時点で末端管理職(インストラクター)だった人々が多く見られる。市・地区レベルに至っては、ノメンクラトゥーラに替わって権力を握ったものの多くは、昨日までの労働者、炭鉱労働者、職長であった(57)。これらの人々はしばしば「責任(vidpovidal’nist’)」の観念を欠いており、職務に耐えなかった。 ウクライナ政府全体が幹部政策の重要性を認識し始めた1994年頃、リヴィウ州行政府も急進的人事政策の誤りに気付き、かつての共産党、コムソモール、KGBの専従職員を執行委員会=行政府に採用するために捜し始めたが、時既に遅しであった(58)。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION