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のである。ただし、ウクライナの大統領派の方がロシアの大統領派よりも、上述のような粉飾において稚拙であるという印象を受ける。これは、ウクライナの権力党の全般的な能力の低さのみによって説明されるものではなく、民族主義と「改革」とが国家イデオロギーとして結合されたウクライナにおいては、「いまは分権化よりも主権国家の存続そのものが大切である」という論法が受け容れられ易いためであると考えられる。

 

4 州政治と地方制度改革-リヴィウ州

 

図表4を参照せよ。1990年3-4月の地方選挙でリヴィウ州のソビエト権力を奪取することになる民族民主派は、二つの政治運動から幹部を調達した。第一は、旧体制下の人権擁護・異論派団体がペレストロイカの中で再活性化したウクライナ・ヘルシンキ連合(後のウクライナ共和党)、第二は、1988年に結成され、1989年に国語法が採択されたことを機に活動を活発化させたシェフチェンコ記念ウクライナ語協会(これと緊密な協力関係にあったのは、ほんらいは共産主義体制の政治的啓蒙団体であった「啓蒙(prosvita)」)であった。以上の二つの政治運動が「筋金入り」のものであったとすれば、第二の政治運動、すなわち1988年末に民族主義的諸団体の連合体として結成された「ルフ」(「ペレストロイカのためのウクライナ人民運動」)は、ウクライナの主権化という一点で結ばれた大衆的な組織であり、その構成員にウクライナ共産党との「二重党籍」さえ認めるものであった。有名なヴャチェスラフ・チョルノヴィル(1938年生)はヘルシンキ連合の、1990年から94年まで州執行機関の長を務めたステパン・ダヴィムカ(1947年生)は「啓蒙」の出身である。

新しく成立した州ソビエトは、ウクライナ民族主義のシンボルであり、旧体制下で何度となく獄中生活を経験したチョルノヴィルを議長に選んだ(195名の代議員のうち141名が支持)。州だけではなく、市・地区の新生ソビエト第1会期も、共産党権力の打倒を歓呼して祝福する市民集会に囲まれ、議場には公式の「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国旗」と並んで青黄旗が掲げられ、代議員により「ウクライナは未だ死なず」が斉唱された(共産党代議員も声を併せざるをえなかった)。議場からはレーニン像が撤去され、その替わりに(キエフ・ルーシ時代の紋章で、ロシア革命時のウクライナ人民共和国の国章でもあった)「ネプチューンの二叉槍」が掲げられた。

ハリチナの共産党組織は、1990年の地方選挙で敗北した後も、かつての州・地区・市党委員会・ソビエトの建物のかなりの部分を占拠し続けた(地方党組織はソ連全体の党財政によって支えられていたため、そのような分不相応の贅沢が可能だったのである)。しかし、政策決定過程からは事実上排除され、住民も必要な際には、

 

 

 

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