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第一に、人口密度が相対的に高いウクライナにおいては農村部基層自治体としての村の人口規模がロシアのそれよりも大きく、中二階構造としての地区の存在意義が小さいこと、また、地区そのものの規模もロシアよりウクライナの方が大きく、自治体としての適正規模を越えていることがあげられる(26)。第二に、財政難がロシアよりも厳しいため、上からの補助金によってようやく存続しているにすぎない地区機関の自治は現実的ではないと考えられている(27)。第二に、連邦制の場合と同様、「ウクライナは国家の存続そのものが不確定であるので、いまは地方自治よりも国家の一体性を守ることの方が大切である」という主張がなされている。

 

(2)1990年の分権化

 

1991年ロシア社会主義連邦ソビエト共和国地方自治法の制定いらいのロシアの地方制度改革が、?「強い首長制」を基礎とした執行権力の強化、?「漸進的アングロサクソン化」という一貫した趨勢を保ったのに対し(28)、ウクライナの地方制度は、1990年(分権化)、1992年(集権化)、1994年(再分権化)、1995-96年(再集権化)と、少なくとも4回の根本的な方向転換を経験した。

ソ連における新たな地方制度の模索は、1990年4月9日に採択された「ソ連における地方自治と地方経営の一般原則に関する」連邦法から始まった。この法の基本概念である「すべての権力をソビエトへ」が、上級・下級のソビエト関係の断絶、下克上の雰囲気、ソビエトから執行権力への素人的な干渉などを生んでしまった点では、ロシア共和国もウクライナ共和国も同じだった(29)が、この無政府状態への両共和国の対応は異なった。ロシア共和国最高会議は、上述のソ連邦法採択後1年3か月間の検討を経て、「すべての権力をソビエトへ」という国家観と決別し、権力分立原理、つまり執行権力の自立性と命令一元性を強化する共和国地方自治法を1991年7月に採択した。ところが、ウクライナ共和国最高会議は、ソ連邦法の採択のわずか8か月後、1990年12月7日、「すべての権力をソビエトへ」方針を踏襲する共和国地方自治法(30)を採択したのである。このような性急さは、当時のウクライナの指導部が、1990年春の共和国選挙・地方選挙後に現出した無政府状態への対処よりも、ウクライナの主権化のために既存のソビエト位階制を破壊する課題の方を優先したことを示している。

ただし、無政府状態への対処として、1990年から91年にかけてのウクライナ共和国においては、やがてソ連全体に普及する、ある措置がとられている。それは、ソビエト議長とソビエト執行委員会議長を同一人物に兼任させることであった。1991年の春頃、ロシア共和国の多くの州はウクライナ共和国に倣ってこの措置を

 

 

 

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