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(注)

(1) 新潟からウラジオストクまでは、飛行機で約1時間半の距離である。

(2) 日本政府がナホトカに総領事館を開設したのは1967年。日本政府はそれ以前から総領事館をウラジオストク市に開設したいという意向を持っていたが、当時はウラジオストクが閉鎖都市であったため、ナホトカに開かざるを得なかったのである。なお、1997年12月現在、ウラジオストクに領事館を開設しているのは、日本、アメリカ合衆国、韓国、インドの4国である。

(3) 外務省支援委員会事務局編『日本の対ロシア支援事業』p.7。

(4) 日本の自治体の環日本海構想については、小山 97 参照。ただし、この論文は、「集権=悪、分権=善」、「国=悪、自治体=善」といった固定観念に囚われており、ややナイーブな印象を受ける。ODAにおける地方自治体のイニシアチブを高めよといった主張は耳あたりがよいが、では会計検査をどうするのか。我々の税金が現地役職者の純金製の腕時計や鼈甲製の携帯電話に化ける危険性はないと言えるのか。

(5) ゲリマン 96、P.52。

(6) 松里 97、pp.32-35。

(7) タンボフ州においては、1992年以来の州都タンボフ市長であるコヴァリと、1995年12月の州知事選挙の結果、知事となった共産党系のリャーボフとの間の対立が続いていたが、1996年11月、前者は、市長職を保持したまま大統領全権代表に任命された。つまり、(共産党系)州知事・対・(モスクワ直結の)州都市長=大統領全権代表という構図が成立したのである。

(8) もうひとつの論点としては、FSB地方局長コンドラートフの大統領全権代表への任命は、いったんは純粋な防諜機関(連邦防諜庁=FSK)にまで機能を縮小したロシアの政治警察が、かつてのKGBのように自国のエリートそのものを監視する強大な内務警察へと復帰する過程での里程表なのか、それとも沿海地方に限った例外措置なのかが考察されねばなるまい。しかし、それは本稿の課題ではない。

(9) 日本国際問題研究所『ロシア連邦極東地域研究』平成7年3月、平成8年3月、平成9年3月。

(10) 小森田 94 上・下:小森田 98。

(11) 荒井 ベロフ 96。

(12) ただし、ウラジオストク市庁地方自治問題部長イリヤ・グリンチェンコの個人的な好意により、市政調査については状況を打破することができた。本稿中の市政情報の多くは、彼の協力に負っている。

(13) 第1期沿海地方議会の選出をめぐる顛末については、藤本 96、pp.1213。要約すれば、1994年3月に予定されていた選挙は、ナズドラチェンコとウラジオストク市長の間の紛争の煽りを受けて延期された。同年10月に行われた選挙では、低投票率のため39選挙区のうち19選挙区でしか議員が選出されなかった。翌95年1月に行われた再選挙では、11名の議員が補充され、これで議員総数が定数の3分の2(26名)を越えたため、議会は成立したとされた。残りの9選挙区では、1995年12月の連邦議会国家会議(下院)選挙(全国的には共産党が大勝した有名な選挙)と同日に再々選挙が行われ、6選挙区で議員が補充された。最後まで残った二つの空白選挙区は全てウラジオストク市に属している。95年12月に選ばれた6名の議員については、1997年12月に行われた改選までに任期は2年しかなかったことになる。

(14) 以下、諸新聞の発行部数については、沿海地方知事プレス・セクレタリー報道情報部長フストフスカヤ(Vstovskaia)、ナターリヤ・ヴィクトロヴナからの聞き取り(12月19日)による。

(15) 通常の新聞に売春の広告が載るのは、たとえば『ウラジオストク』紙も同様であり、沿海地方では別に驚くべきことではない。ただし、どの程度でかでかと載るかという点では、かなり差がある。

(16) 対照的に、「北のセンター」であるモスクワ、サンクトペテルブルクなどの選挙民は、大統領選挙だけではなく連邦議会選挙でも市場経済派に投票するのである。

(17) 党首ジリノフスキーが人種偏見をしばしば扇動するので見過ごしがちであるが、自民党の大国主義はインターナショナルな大国主義である(その点で共産党よりも自民党の方がソビエト大国主義に近

 

 

 

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