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を握りつぶした1994年当時のエリツィンと同じ判断を下した。すなわち、公選されたトルストシェインが自立してしまうことを恐れ、ウラジオストク市長選挙をこの時期に行うことを許さなかったのである(80)。大統領選挙に前後して、チェレプコーフの市長復帰が不可避となった情勢下でナズドラチェンコ派はばたばたと市長選を準備するが、時既に遅しであった(後述)。

エリツィンが自分の側から前言を撤回して、いったん解任した人物を復職させたのは、チェレプコーフが最初であった。たしかにエリツィンは、1996年初頭、かつて自分が解任したスヴエルドロフスク州知事ロッセリと和解したが、これはロッセリが前年8月の知事選挙に勝ってエリツィンが前非を悔いざるを得ない力関係を作ったからである。戦略要地であるとはいえ、たかだか人口70万人の都市の市長に対していったん下した決定をエリツィンが覆すことがあり得るとは誰も信じなかった。したがって、1995年頃には、人々はチェレプコーフを「忘れ始めた」。彼は、同年12月のクライ知事選挙と連邦議会下院選挙(ウラジオストク選挙区)との両方に同時出馬したが、クライ知事選挙においてはナズドラチェンコの得票69.6%に対して17.5%とるにとどまった(81)。下院選挙においては、かつて1993年市長選挙の決選投票において自分が打ち破ったウラヂーミル・シャーホフに雪辱を許した(シャーホフの得票22.4%、チェレプコーフ16.4%(82))。

その反面では、1994年時点でのチェレプコーフの解任は彼自身にとって天佑であったとする説もある。1994年初頭は、最高会議という共通の敵を失い、1993年12月連邦議会選挙で思わぬ敗北を喫し、十月事件後の情勢に対応する共通認識を失ったロシア民主派(とかつて呼ばれていた人々)が、中央レベルで、また多くのリージョンで四分五裂し、権威を失い始めた時期であった。ところが、チェレプコーフという殉教者を得たおかげで、沿海地方ではガイダール派からヤブリンスキー派に至るまでの党派が団結を固めたのである。まさにチェレプコーフの不遇ゆえに、沿海地方の反ナズドラチェンコ派はチュバイスら中央の旧民主派への直接の回路を保持し続け、また、「独裁者」ナズドラチェンコへの抵抗のシンボルとしてのチェレプコーフの名声は国際的に確立されたのである(83)。さらに言えば、殉教者の自己イメージ、絶えず迫害されているという強迫観念は、チェレプコーフ自身にとって心地よいものであった(84)。

1996年8月14日、モスクワ市にあるハモヴニチェスキー自治体間裁判所は、チェレプコーフをウラジオストク市長として復権した。その後、ナズドラチェンコ、チェレプコーフ双方が大統領周辺に有するパトロン間の激しい綱引きを反映して、大統領府の決定は二転三転したが、最終的には、エリツィンは9月24日付布告をもって、チェレプコーフを復職させた(85)。ここに至ってナズドラチェンコも

 

 

 

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