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5 その他

 

竹久夢二「榛名山美術研究所宣言文」(岡崎まこと『竹久夢二正伝』より)

 

「雛によする展覧会」の年の五月に、夢二は森口氏のいう「榛名山美術研究所建設」の宣言文を発表している。森口氏の「田園の新しい喜びのために」と題した長文の激励文と、島崎藤村・有島生馬・藤島武二ほかの賛助員の言葉もつらね、当時の田村県知事や竹内前橋市長らの賛同も得ていた。また高崎出身の若い貴族院議員、桜井伊兵衛が土地を提供し、榛名湖畔の西側斜面で山荘の建築にも着手し、そこを根城に夢二は「手作りの産業」を育成する構想をたてた。窮乏の農山村の経済厚生策が、国をあげての至上課題だったのだ。もっとも、前々年の夏、夢二は有島生馬と伊香保を訪れて塚越旅館に泊まり、榛名湖畔にアトリエをもちたい希望をもらしている。帰京後にも、同館主七平氏の次女迪子さんに、歌をそえた長文の手紙を数かず送っている。(夢二伊香保記念館刊『竹久夢二』)一朝一夕の思いつきでも、単なる便乗でもなかったことがわかる。

夢二がしたしめた宣言文は

 

榛名山美術研究所建設につき

あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは誰からも示されてゐない。吾々はもはや現代の権力闘争及政活的施設を信用し待望しては居られない。しかも吾々は生活せねばならない。

快適な生活のためには、各々が最単位の自己の生活から建てゝゆかねばならない。まづ衣食住から手をつけるとする。

さういふ吾々の生活条網を充たしてくれるために、今の所、僅かに山間が残されてゐた。

幸ひ榛名山上に吾々のため若干の土地が与へられた。美術研究所をそこへ建てる所以である。

吾々は地理的に手近かな材料から生活に即した仕事から始めやうと思ふ。吾々の日常生活の必要と感覚は、吾々に絵画・木工・陶工・染織等々の製作を促すだらう。同様の必要と感興を持つ隣人のために、最低労銀と材料費で製作品を頒つことが出来る。或は製作品と素材とを物々交換する便利もあらう。

そこで商業主義が作る所の流行品と大量生産の粗製品の送荷を断る。また市場の移り気な顧客を強ひて求めないがゆゑに、吾々は自己の感覚に忠実であることも出来る。かういふ心構へから、生活と共にある新鮮な素朴な日用品をつくる希望をもつ隣人のために研究所を開放する。

吾々の教師はあくまで自然である。しかし吾々は既成品を模倣するためでなくに(て)先人が自然から学んだ体験をきくために、時に講演会・講習会を開く。また吾等の製作品を人々に示すために、時に展覧会を開く。榛名山美術研究所を設ける所以である。

千九百三十年五月 榛名山美術研究所

竹久夢二

 

宣言文にうたっているように、美術研究所といっても産業美術研究所で、青江舜二郎は英国の理想的社会主義者ウイリアム・モリス(一八三四〜一八九六)になぞらえ、武者小路実篤“新しき村”や、宮沢賢治の“羅須地人協会”を引用されている。その精神や目的は同じだが、多分に柳宗悦の民芸運動に近いものが考えられ、また翌年渡米にあたって“榛名山美術学校建設”を唱えながら、「唄と踊り」を宣伝していることからも、新しい手づくり産業と郷土芸能や娯楽による農山村の厚生を目指し、その研究と指導を企画したと思える。政府の名ばかりの“農村更正五ヶ年計画”も、市町村の補助金目当ての受け入れで、最初から期待の外だったが、年とともに農山村の荒廃は厳しさと速度を加えていった。彼の唐突な渡米につづく病死が惜しまれる所以でもある。

 

 

 

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