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献体30年

 

九州大学医学部

 

戦後の昭和20年代は福岡市も被爆で中心部はほとんど消失し、大陸からの復員帰国者、浮浪児が闇市をさまよっていた。昭和25年には朝鮮戦争の勃発で金めのもの、特に銅製品の避雷針、消火ホースの継ぎ手、屋根板などが盗難に遭い、散々な態であった。御他聞に漏れず、解剖体も次第に払底してきて、果ては各大学で奪い合いのような窮状に陥り、大学毎にその対策に智恵を絞っていた。県境に近い過疎地、県外の壱岐・対馬等の離島にまで平常から手を尽くして置かねばならなかった。また、たまにある刑死者の収容でも、大学と刑務所間片道6?の道をリヤカーを引いて事務官と同道して歩いて行ったこともある。公用車の手配など望むべくも無かった。そういった世情の中で九大白菊会創設を決意された東尚斉氏(後の初代理事長)や一ノ宮俊雄氏(機関紙「白菊」の続刊に地道な努力を尽くされた)などの無私の御協力で献体者自身の発意による九大白菊会が発足したのが昭和46年7月である。この申し出を受けたときは誠に嬉しかった。「地獄で仏」である。今でも懐かしい。一番大事な人生の事を爽やかに話して少しも飾りがない。たまたま生を共にしながらも必ず死別せざるを得ぬ現実にお互い顔を見詰め合ったものである。これで「物好き」「売名」などとの陰口を差し挟まれる筋合いは無くなった。老人達が勇んで希望に没頭される道が開かれると心が弾んだ。これまで医学部に献体登録する事務手続きはあったのだが、これには法的な裏付けが無く、みすみす遺族の手によって結局は献体者本人の希望は果たされず終いになる事が多々あった。
「白菊」を読み返していくと寄稿者の顔ぶれが懐かしく思い出される。皆さん静かながら毅然とした方々であった。全国の大学でも大体事情は同じであろうが、それらが集まって篤志解剖全国連合会を結成し、行く行くは献体法制定まで漕ぎ着けるのであるが、その中にあって尽力された当時の同会理事長竹重順夫先生の事を特に書き添えておきたい。同氏の遺稿は末尾に付記する。先生は小生と同大学で同教室の先輩である。昭和59年2月初めのある日、突然教室の小生へお電話を頂いた。用件は、献体法制定の経緯について、九大医学部同窓会誌「学士鍋」に寄稿したいとのこと。私は願ってもないことと早速同誌の編集部から急ぎ掲載の許諾を得た。今から思うとあれは遺言であった。かねて癌性腹膜炎で臥って居られたから、肩で息をしながらの荒い御呼吸の下で最後の訴えをされたに違いない。先生の執念がそうさせたものであろう。医学生やご老人達に最後の訴えと感謝をされたものであろう。篤志解剖全国連合会→解剖学会→学術会議→同勧告→政府→議員立法へと政官民挙げてすんなり運んだ制定の経緯は敬虔なクリスチャンであられた先生にとっても「主の幻影」に恥じない一つの快事であったろうと思う。それでどれだけの人が救われているのだろうか。シェンキェヴィッチの「クォバディス」ではないが改めてこの法の制定の意義を思う。この原稿は2月19日に受け付けられ、やっと6月10日の刊行に間に合った。ただ残念な事に先生の容態はそれまで待てず、遂に4月25日昇天された。せめてお手づからの校正に間に合っただけが不肖の小生の慰めである。
(九州大学名誉教授、前解剖学第二講座教授 永井昌文)

 

参考文献
1.「白菊」1号('78)〜18号('95)
2.竹重順夫:献体法制定によせて(遺稿)、九州大学医学部同窓会誌「学士鍋」51号、'84

 

 

 

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