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関西医科大学の献体のあゆみ

 

関西医科大学

 

関西医科大学の献体のあゆみをたどれば、本学に献体事務室が置かれた昭和40年当時にさかのぼる。この事務室の献体記録によると昭和41年に初回の登録が行われた。その後、昭和49年「しらぎく」初刊を発行、昭和55年まで「しらぎく」は3号を数え、献体登録者は109名に達した。昭和56年には「関西医大白菊会」が発足し、それ以後は本会の会長、役員を中心に活発に篤志献体活動を展開することになる。平成8年6月現在の会員は1,200名に及ぶ。初代会長は三宅實(昭和56年発会より平成元年まで)、第2代会長は大谷肇(平成元年より)が担当している。献体の受け入れは系統解剖部門と大学学部事務部学務課が担当している。年間行事として、京都建仁寺での解剖体追悼法要と遺骨返還式(5月)、関西医大白菊会総会(6月)、解剖体慰霊碑供養(9月)を執り行っている。大谷肇会長は、着任当初より会員相互の和と教養の向上を目標にして、真向法による健康体操を普及せしめるとともに入会者への面談や総会の特別講演を企画・推進することによって会員の生き甲斐志向の高揚に努力しておられる。医学部学生の解剖実習は第2学年の秋から冬学期にわたって実施している。医学生は、この実習によって知識、技術を修得するのはもちろんのこと、医師としての態度を身につける。本学の献体のあゆみをふりかえれば、ちょうど関西医大白菊会発会5年目にあたる昭和60年に、当時の塚原勇学長(現在本学理事長)がこの点について述べているので引用し、記録に留めたい。
(中略)わが国でも明治に入ると解剖に対する自由な空気があらわれ、篤志解剖が行われるようになりました。本人の生前の意思により献体された遺体に対して行われる今日の解剖の始まりであります。明治元年尾張藩出身の宇都宮鉱之進は重い病にかかり、死後自分の遺体を解剖して医学発展の一助としてほしいと生前に願い出て、役所の許可も得たのですが、病気が治ったので篤志解剖第1号の栄を得ることができず、篤志解剖第1号の名誉は34才の女性ミキ(美幾)の得るところとなりました。明治2年、医学校においてミキ女の篤志解剖が行われ、その墓は現在の東京都文京区戸崎町の念速寺にあります。篤志解剖第2号から4号までは明治3年に行われています。大学は何れの場合にもさかんな葬送をなし、永代読経料を付してていねいに葬っています。今日各医科大学が行っている解剖体祭、追悼法要の起源は、さきにのべた山脇東洋に解剖された38才の男子に夢覚信士という戒名を与えて霊を祭ったのが始まりであるといわれています(小川鼎三氏による)。
明治以降、医科大学が整備され、医学教育が進歩して今日に至っていますが、医学生の専門教育の授業は先ず解剖学から始まり、解剖実習において学生は医学を志したことを実感し、医学の崇高な目的を自覚するのであります。解剖実習は教育であるとともに、医学入門のための厳粛な式典でもあるのです。大学は医学教育、研究を支えるために尊い御遺体を献体された方々に心から感謝し、その霊を慰めるものであります。これはひとり大学のみならず、医学の恩恵を受ける世間の人々全部についても云えることでありましょう。

 

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