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献体運動40年

 

財団法人 日本篤志献体協会
初代理事長・白菊会会長 倉屋 利一

 

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白菊会は、東京大学医学部解剖学教室で藤田恒太郎教授指導のもとに、昭和30年9月16日に発足して今年で41年を迎えた。それは亡父利助が生前に、死後の遺体を教育用に提供する、と教授に約束したことから始まった事なのである。また、白菊はその花言葉が「献身誠実」ということから会の名称にはまことにふさわしいと考えたのである。
やがて東京大学だけでなく全国的に献体運動を拡大するために、会報しらぎく1号に「地方のかたで、献体の意志をもたれている方々のために住所に一番近い大学に連絡し、白菊会の会員として献体できるようにします。ご希望大学を指定してください。」と啓蒙運動を始め、徐々に献体の輪が広がっていったのであった。
昭和36年には京大白菊会が、また名古屋大学には不老会などの各団体が相次いで発足し、また大学によっては順次白菊会支部となり、医学のための献体運動が全国的に広まっていった。
昭和39年4月1日には藤田恒太郎本会会長が逝去され、ご遺体は東京大学医学部に献体された。
昭和40年の時点で全国にある団体の遺体寄贈の理念の違いの大きさを知ったことから、全国の医歯系大学と各団体とに呼びかけ、昭和42年3月、名古屋大学で行われた日本解剖学総会開催を機に、名称を特志解剖全国懇談会として第1回の会合を開いたのであった(第6回から特志を篤志と改めた)。この会が篤志解剖全国連合会の母体となった。
昭和42年頃から各大学は、学園紛争の渦中にあったのだが、東京大学では学生による建物封鎖にもかかわらず、活動家学生が白菊会の存在理由に理解を示したため、医学部本館内にあった本会事務所への出入りが自由で会の運営に支障は起きなかった。会員の中には学生の態度に反発し、献体を中止するといった申し出があったり、新聞投稿欄に学生に対する批判が相次いだことなどもあった。
昭和46年、篤志解剖全国連合会を設立、本部も白菊会本部内に設置、運営に当たった。しかし私は篤志解剖全国連絡会事務局長、昭和48年に設立した日本篤志献体協会理事長としての肩書だけでなく実務まで担当してきたので、白菊会本部の業務が滞りがちになり、会報の発行も数年停止の状態に到ったため、ついに両方の職を辞任することにし、白菊会本部の業務に専念することにしたのであった。
私自身、白菊会発足から約10年は私財を投じて、会の運営のための全てを賄い、また休日の遺体引取も大学の体制が整っていなかった当初には倉屋個人の車を使用して献体者遺族に接したことが度々であった。これも全て白菊会会員、献体者に対する理事長としての感謝の態度表明からであった。しかし悲しいことには白菊会は随分儲かるとのうわさをするような人が居たことも事実であった。
昭和55年にこれまでの真摯な運動の結果、時の大平総理大臣が、「献体登録に関する法制化の促進について」との勧告をされ、献体を促進しようとする動きが政界でも高まった。その後、法制化の成立とともに献体者に対し文部省から感謝状が贈られるようになったのである。
昭和62年頃までは、白菊会本部会長として各大学の慰霊祭に年間を通して16〜18回、会員所属の老人ホームまた大学支部などの出張総会に12〜13回、大学医学部、歯学部の解剖実習時期に特別講演

 

 

 

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