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以上が現在推定し得る遣唐使船のあらましであるが、この程度のもので満足な復元ができるはずはなく、かといって新資科発見の期待できない今日ではこれ以上突込みようもない。というわけで、遺唐使船の復元は所詮夢物語でしかないことがわかるであろう。
最後に一言つけ加えさせて順くと、かつて神戸市で開催されたポートピア展に出陳されていた遣唐使船の大きなモデルを御覧になった方も多いと思う。しかし、あの船はあくまでも博覧会という一時的展示用の略式モデルであって、復元船でないことはいうまでもない。とくに、寸法面では上記の推定寸法を参考にしたものの、収容する建物の制約から7割程度に縮小せざるを得なかったため、船としての大きさはその3乗に当たる約4制しかないのである。会場の説明パネルには、そのことを断ってあったのだが、ほとんどの方が見落して、あれを実物大と誤解されたという話なので、遣唐使船の復元に関連してちょっとふれさせて頂いた次第である。

 

さてつぎは、壇の浦合戦で活躍した源平の水軍の船について、やはり復元が可能なまでに解明されているかどうかをみてゆくことにしよう。
当時は水軍といっても近世のような専用の軍船はなく、平時の輸送船に武士が乗り込んだにすぎないものであった。このことは、ほぼ百年後の『蒙古襲来絵詞』に描かれている日本の軍船をみれば一目瞭然である。そこには小弐・島津といった最高指揮官の乗る軍船が、当時の輸送船と少しも変わらぬ形式で描かれているではないか。輸送船の形式は同時代の多数の絵画資料によって立証できるので疑う余地はないし、またその船体が大型の刳船式船底部の上に舷側板を設けた、いわゆる準構造船形式であることも、同じ理由によって明らかである。
このように、当時の大型船の形式や大まかな構造・艤装は鎌倉時代の絵画資料から推定できるのだが、具合いの悪いのは肝心の船の寸法資料が皆無に等しいことである。ただし、積載量と乗組水手(かこ)数との関係を示す資料はかなりあって、たとえば100石積(当時の宣旨斗(せんじます)の石数、米の場合で約10トンの積載量に当たる)で楫取1人に水手6人、150石積(15トン)で水手9人、最大級の300石積(30トン)で水手13人というように、水手1人当たりの積載量は20石(2トン)前後となっている。かように水手1人当たりで2トン前後も輸送できるところに、陸上輸送に対する海上輸送の効率のよさが示されているわけだが、こうした事実をふまえながら『蒙古襲来絵詞』をはじめとする絵巻類に描かれている大型船を検討してゆくと、全く不明だった寸法もある程度は見当がつくようになる。
その一例として『北野天神緑起絵巻』(承久本)の管原

 

 

 

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