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そこでここでは、遣唐使船の研究に際し、われわれがいかなる方法でアプローチしたかを述べ、復元がいかに困難なことであるかを理解して頂くよすがにしたいと思う。
遣唐使船の場合、まず第一に頼りになる史科は『続日本紀.』『続日本後紀』といった史書や、人唐僧円仁の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほう)』などにでてくる遣唐使船関係の記述である。しかし、それらは技術的にはごく断片的なものでしかないから、これによって遣唐使船の船型・構造・艤装といったものを具体的に把握することはとうていできない。そこでその補いとして、時代は少し下がるが十二世紀の宋代の大型外洋船のことをよく書いてある『宣和奉使高麗図経』とか、中国の泉州で発掘された宋代の大型航洋船などを参考にしていくわけである。こうした中国側の資料を重視するのは、『続日本紀』をはじめとする日本側の史料によって、遣唐使船が中国系のジャンク式の構造船だと判断できるからである。むろん唐代の航洋船の出土例があればそれにこしたことはないけれども、それがない現在では宋代のものでも手がかりにするよりほかはないのである。

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最も古い遣唐使船推定資料(『聖徳太子絵伝』中の遣唐使船の写し)

ところで、遣唐使船は、肝心の大きさがわからない。わかるのは、後期の遣唐使船が一艘平均140人前後も乗り組んでいたことぐらいである。また、寸法の手掛かりとしては、天平宝字5年(761)迎入唐大使高元度の帰国用に唐朝で用意してくれた船が長さ8丈(24メートル)という『続日本紀』の記事が唯一である。まず船体の長さ8丈を基準とし、これを泉州出土の宋代外洋船と似た寸法比をもつ船型と仮定して大きさの見当をつけてみると、全長30メートル、最大幅8.5メートル、喫水2.8メートル、満載排水量約300トンという船になった。これならば積載量も150トン程度は確保できるし、遣唐使船としては過不足ない大きさといえるので、まずは当たらずといえども遠からずといったところであろう。したがって構造も典型的なジャンク式構造となるから、太い竜骨に多数の隔壁を配して骨格を造り、そこへ外板をはったものと考えてよい。もっともこれは、遣唐使船が宋代の大型外洋船と同系の技術によっているとみなしての話であり、この前提が覆えるような新事実がでてくればまったくナンセンスなものとなってしまうことはいうまでもない。つぎは外観上の大きな特徴となる帆装だが、これについては日本側の史料でも2本の帆柱を立てていたらしいことは推察できる。これは11世紀の『聖徳太子絵伝』や12世紀の『吉備大臣入唐絵詞』などの船に描かれている帆装と符合するばかりでなく、『宣和奉使高麗図経』の記述や泉州出土の宋船とも一致するので、帆が網代帆(あじろほ)だったことと合わせてまずは間違いないとしていいようだ。しかし寸法的には押えられないし、網代帆にしても近世のそれから推測するしかないので、具体的な点は不明としかいいようがない。
なお、舷側上縁には櫓棚があり、ここで櫓を漕いだことは疑いないが、挿図の『聖徳太子絵伝』の船では舷側に張り出した櫓棚が描いてあって、ある程度の想像はつく。舵は、宋の外洋船では船尾中央の正柁と船尾両側の三割柁(さんぷくだ)とがあることになっているが、三割柁は『吉備大臣入唐絵詞』の船の左舷に明瞭に描いてあって、これもまた史料と絵画とがよく符合する例となっている。

 

 

 

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