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了解されていたと言ってよい。しかも現実に、東京府庁や東京市役所とならんで、国政直轄の機関として警視庁は建築・衛生・経済統制などの首都行政を掌握していた。逆に言えば“首都性”に鑑みて、本来ならば当然に府庁や市役所が担うべきこれらの役割を警視庁が担ったのである。
 もっとも1898年市制改正に伴い、東京市長のポストは他の地方とは異なり東京府知事を上回る独立した役職と認識されるようになった。やがて20世紀に入ると、国政から任じられる警視総監に対して、市政一東京市会から選ばれる東京市長という構図が確立する。
 だが東京市長も、任期が長く強い権力を維持していたわけではない。それどころか、戦前の東京市長は、大臣を一度は経験した政治家の中二階的ポストとして一見華やかにみえるものの、現実には利権とスキャンダルの巣窟と言われた東京市会にその死命を制せられ、2年ももてばよい方で、大概は満身創療で放り出されるのが落ちであった。したがって大風呂敷と称され、1頭地を抜く政治力をもっていた後藤新平でさえ、東京市長に推された折、側近連中は政治生命を断たれる恐れがあるとして断固反対したほどであった。それにもかかわらず、なぜ後藤は原敬首相の懇請をうけ、東京市長になり、市政改革や対ソ外交に臨んだのか。それは後藤自身の中に、東京市長の“首都性”に関する役割認識があったからに相違ない。(注2)

2 東京都長官の誕生

 ところでこのように東京市会による“使い捨て”商品的存在であった東京市長が、決定的に変わる契機となったのは、次の2つの制度改革による。第1は戦時体制の下での府市合併に基づく東京都の成立である。第2は戦後体制の下での地方自治法の成立である。まず東京都の成立は、「部長官」というポストの名称そのものに表れているように、首都の代表としてのシンボリックなイメージを一段と高める効果をもった。しかし同時に「府」と「市」というきわめて複雑な政治行政機構の実質的担い手として、「部長官」には高い実務能力が期待されることにもなった。
 つまり「部長官」には首都を代表する「象徴性」と大都市東京を経営する「実務性」という相反する性格が、きわどく不可分一体のものとして付与されたのである、実際、戦時中から終戦直後にかけての大物内務官僚長官たち、たとえば、元内務次官大達茂

 

 

 

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