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3 連邦制・地方分権からみた首都移転問題

 (1)ベルリンヘの首都移転

 1990年8月31目の東西ドイツの統一条約2条1項は、「ドイツの首都はベノレリンである。議会と政府の所在地の問題はドイツ統一実現の後に決定される。」と規定した、この規定をふまえた、1991年6月20日の連邦議会決議は、ボンからベルリンヘの連邦首都移転の方向および大枠を決定づけた。そして、連邦、州、自治体などの多様な団体・機関の検討と調整を経て、最終的には1994年3月の「ボンーベルリン法」によって首都移転が確定されるにいたる。
 首都移転の論議をみて注目されることの一つは、首都移転の是非、内容、条件などについて、様々なレベルで幅広く論議がなされたことである。これは、戦後ドイツの政治がコンセンサスによる民主主義を指向したことの結果であると同時に、前述の「協調的連邦主義」の成果でもあるといえよう。
 もう一つは、連邦制や地方分権の維持に対する配慮が行き届いていることである。こうした配慮は、東西ドイツの統一にともなう政治的決定にはっきりとみてとることができる。すなわち、(1)ボンからベルリンヘの連邦首都移転をめぐる措置、(2)新川の再建をめぐる措置、(3)ベルリンとブランデンブルク州の合併条約草案における開発理念(=分散的集中)などに、連邦制や地方分権に対する配慮がみられるのである。そこでは、新首都ベルリンヘの集中・集権を回避する措置がとられている。具体的に、これをみておこう。
 (1)については、連邦首都でなくなったボンを「連邦都市」として位置づけ、ボンを連邦参議院の所在地とすること、連邦政府の8官庁(食糧・農業・森林省、国防省、環境省、研究技術省、郵便通信省、教育科学省、経済協力省)をボンに残すこと、ベルリンに移転する10官庁(外務省、内務省、法務省、大蔵省、経済省、労働・社会制度省、家族・老人省、夫人・青少年省、交通省、建設省、情報広報庁、首相府)の連絡事務所をボンに置くこと、それ以外にも連邦機関をボンに移転すること、国際機関をボンに誘致することなどが決定されている。これは、ボンの空洞化対策であると同時に、ボンによって象徴された戦後ドイツの連邦制を統一後も維持しようとする決意の表明でもあろう。
 (2)については、連邦首都移転を契機とする各種機関の(再)配置についても、一

 

 

 

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