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野麦峠

工女宿・宝来屋

宝来屋は奈川村、川浦にあったもので、当時工女が泊まる宿は7軒あり宝来屋はそのうちの一軒です。大正6年前後まではにぎわっていましたが、それ以後工女の峠越えが減少してからさびれていきました。
木造2階建て、江戸時代に建てられたもので、6つの客室があり、一度に100人以上の工女を泊めたといわれます。
明治中期から昭和の中期までの数十年間、生糸は輸出の首位をしめ当時の日本経済を支えていました。この生糸の大部分が、諏訪湖畔(岡谷)の生糸工場で生産されました。
生糸工場へは小学校を卒業したばかりの12・3才の少女達が、毎年野麦峠を越え、飛騨から工女として出稼ぎに来ました。
彼女たちの苛酷な労働が、日本の生糸産業を支え、最高級の生糸を作りだしたのです。野麦峠は飛騨と信州のちょうど中間にあります。諏訪に向う娘達はこの峠で飛騨に別れを告げ、また、師走近くになると幾許かの労賃を風呂敷に包み、いくつもの吹雪の峠を越え、我が家へ帰り、懐かしい父母の顔をみるのが何よりもの喜びでした。

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野麦峠がある野麦街道は、クマザサに囲まれた狭い道でした。幅60センチから90センチの山道をあねさん工女といわれた年長の娘達と50人から100人の集団で百数十キロ(40里)にも及ぶ山野を歩き、崖から転落したり、途中で歩けなくなった者、行き倒れた者も数多くいたといわれます。そしてやっと峠を越え、諏訪に着いた工女たちを待っていたのは苛酷な労働だったのです。
こうした若き工女達を泊める旅籠が野麦峠のふもと、奈川村川浦にありました。
宝来屋には、昔の面影が色濃く残っています。工女たちが暖をとり、その周りで食事をしたいろり、20人以上が一つに集まって雑魚寝したこたつなど、当時の工女たちが使ったものが展示されています。

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